待降節第4主日
カトリック浅草教会
第一朗読:サムエル記(サムエル下7・1-5、8b-12、14a、16)
第二朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ16・25-27)
福音朗読:ルカによる福音(ルカ1・26-38)
ー 晴佐久神父様 説教 ー
2020年のクリスマスが、ついにやって来ますねぇ。コロナが流行り出したころが懐かしいです。まだその正体がよくわかってなくてね、「そのうちウイルスもなくなって、みんなで復活祭を祝うことができるだろう」なんて、四旬節のはじめに思ってたのが懐かしいです。「四旬節中にはなんとかなるだろう」とか。それが復活祭はおろか、クリスマスになってもこうして、疫病の中で過ごすことになりました。
さて、神さまは何をお考えなのか。2020年は本当に特別な年になったわけですけど、では、その特別さとは何なのか。神は天地創造の初めから、もう何万年も何億年もずっと世界をお造りになりつづけているんであって、この年はいい年で、この年は悪い年だなんてことないはずです。神の国の完成を目指して、着々と創造のみわざをなしておられる。確かに新型コロナ自体はホントに困ったもんですけども、「だからこそ」っていうきっかけにもなってるし、よく見れば何か特別なしるしのように見えなくもない。これはまだまだ長い目で見ていかなければならないんでしょうけど、とりあえずこの2020年という年の特別さを、私たちはずっと記憶して大切にしていきましょう。困難の中を手探りで乗り越えていった特別な日々を、忘れないようにしたい。そして、「これまでの世界はやっぱりちょっとおかしかった。2021年からは、お互いにちゃんと目を開いて、本当のことに気づいて、もっといい世界にしていこうよ」と言いたい。いつの日か「あの年が、世界が目覚めていったターニングポイント、変わり目だったね」って言えるように。今は、コロナを一つのしるし、きっかけとして、自分には何ができるかを考える。そこが大切だと思う。
「クリスマスの星」が現れてるのご存知ですか? 「ベツレヘムの星」とも呼ばれていますけど、今、現れてるんですよ。聖書に出てくる星ですね。三人の博士がその星を仰ぎ見て、「おお、あれは救い主がお生まれになったしるしだ!」と、旅に出る話です。降誕祭のシンボルとして、クリスマスツリーの一番上に飾ったりもします。二千年前に現れたその星のことは、「大きな彗星だったんじゃないか」とか、「超新星の爆発だったんじゃないか」とか色々言われているんですけど、17世紀にケプラーっていう学者が、「惑星の会合だったんじゃないか」と言い出した。会合って、天文学用語ですけど、惑星と惑星が見かけ上すごく近づいて、時には一つの星のように見える、そんな現象です。聖書に出てくる三人の博士たちって、「占星術の学者たち」とも翻訳されているように、星の動きを見て世の移り変わりを占ったりする専門家ですね。これって、あながち非科学的だとも言えないと思う。人間も宇宙の一部ですからね。そういう宇宙の神秘に敏感であるって、創造のみわざを感じ取る上でとても大事なことなんじゃないですか。
ケプラーによれば、木星と土星が大接近する現象が紀元前7年ころに起こっていて、三人の占星術の学者たちはそれを重大なしるしとして受け止めた、と。その木星と土星の会合が、今また起きてるんですね。しかも、二千年前のときより、もっと近いんです。ちょっと目の悪い人だったら、ほんとに一つに見えるくらい。ここまで近づくのは400年ぶりだそうで、しかも400年前は日中だったんで見えなかった。目視できるのは800年ぶり。
その大接近が、明日とあさってですから、ぜひご覧になったらいいと思います。日没からすぐに見たほうがいい。どんどん沈んでいきますから。日没が4時半くらいですか、今。6時頃がいいんじゃないですかね。南西の空の低いところなんで、街中だと難しいかもしれません。南西が開かれたところ、墨田川の向こう岸とかがいいかもしれない。高いビルの上からとか。今、晴れてますから、絶好ですよ。双眼鏡なんかだと、二つの星がめちゃめちゃ近くなっているのが見えます。肉眼だと、私なんか遠視ですから、滲んで一個に見えるんじゃないですか。
そんな星が12月の21日、22日って、これ、まさにクリスマスの星になりました。あんまり強調すると、「晴佐久神父、ついにそっちの方に行っちゃったか」(笑)って言われそうですけど、でも、じゃあただの偶然なんですかね。やっぱり何かのしるしなんじゃないですか? 三人の博士は、救い主の誕生だと信じて旅に出ました。みなさんのお気持ち次第ってことでしょうけど、さて、星を見上げて何を読み取るか。
ちなみに今回の大接近をネットで見てたら、それこそ占星術の人たちもざわついていて、それによると、2020年から2021年にかけては、なんとか座の時代がなんとか座に変わっていく重要な変革の時らしい。今までの世界のさまざまな行き詰った問題が、大きく変化して、今までの準備が実りをもたらすときが来ている、と。
まあ、大きく時代が変わっていることは確かでしょう。新型コロナのことでも、今までの膿が出切るというか、これまで大事だと思ってやってきたことがほんとに大事だったのかを問い直すというか、多くの人がさまざまなことに気づかされて、生き方を見直すきっかけになってるのは確かです。今まで「どうせ何も変わらない」と、世の中に呑み込まれて生きてきたけれど、新型コロナのおかげでか、星が大接近して教えてくれているのかはともかく、時代は大きく変わり始めているし、ぼくらはそろそろ、新しい世界に向けて一歩踏み出すべきなんじゃないですか。そういう、変化への敏感さというか、しるしを見るセンスって、大事だと思いますよ。ただなんとなく変わらぬ毎日を暮らしてるんじゃなく、コロナの呼びかけ、星の呼びかけを聞いて、「これは世界が変わっていくしるしだ」って信じて旅に出るなんていうのは、これは信仰者の独壇場でもありますしね。
肉眼で見える、800年ぶりの木星と土星の会合。明日は星を眺めながら、「新しい年を、みんなでよいものに変えていこう」って決心して、具体的な行動を起こすきっかけにしたらいいんじゃないですか。
その占星術で、こんなことも言ってました。今回の大変化による2021年以降の新しい心、その中心は、「ことば」と「情報」と「人間関係」なんだ、と。本当のことばと、正しい情報によって、本物の人のつながりをつくっていくことが、2021年以降はすごく大切になっていくそうです。で、この大変化の予兆は80年前に起こっていて、「その代表格は80年前に生まれたジョン・レノンだ」と。
ジョンの話は、上野教会の10月11日の説教でも延々とお話ししましたので、浅草教会のみなさんもぜひ「福音の丘」をチェックして、読んでみてください。10月9日がジョンの誕生日なんですけど、その日から、六本木の「ソニーミュージック六本木ミュージアム」って所で「DOUBLE FANTASY」展っていう展覧会が開かれていて、来年の1月11日までやってますから、ぜひご覧になってくださいっていう話です。
私はジョン・レノンの弟子みたいなもんですから、展覧会の初日に見に行ってジョンの魂を分かち合ってきたわけですけど、あの人なんか、もうまさに「ことば」の人ですし、そして「人間関係」の人なんですよ。本当のことば、本物の人間関係。その彼の願いは、もっとみんなが仲良くなること。みんなで世界を平和にすること。みんなが助け合って、分かち合って、不平等をなくしていくことです。私は若い頃から彼を本当に尊敬してきたし、「平和を我等に」なんていう歌を友達の家に集まって歌ったり、懐かしい思い出ですけれど、確かにこのコロナの時代、2020年以降、彼の願いが実り始めるんじゃないか、大きな変化が起こり始めるんじゃないか、救い主の救いのみわざが本格的に動き始めるんじゃないかって思いたいし、ぼくらはそう願い続けなきゃならないし。
ちなみに、ジョン・レノンのことをもっとよく知っていただきたいと思うので、12月24日、午後10時から、NHK総合テレビでジョン・レノンの特集番組が流れますので、ぜひご覧ください。クリスマスイブの夜、ミサから帰ったらNHK、お忘れなく。以前BSで放映したものですけど、再編集してポールの証言とかも加わってます。占星術では来年からジョンの時代になる、と。星はいつの日も、何かを人類に呼び掛けております。
さきほど、福音書で読んだとおりです。聖母マリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1・38)って、言いました。「はい、オッケーです」「それ、引き受けます」って言ってるわけですね。何を引き受けるかっていうと、天使が「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。」(ルカ1・34)と言っているわけですから、それを引き受けると。聖霊によって神のわざが実現する、新しい世界が始まる、「オッケーですか?」と言われ、「はい」、と。
聖母は我々人類の代表ですから、これはみなさんも言われてるんですよ? みなさんに聖霊が降って、いと高き方の力があなたを包む、と。そして、人々を救うための素晴らしい神のわざが始まるんだ、と。だけどそれには、オッケーしなきゃならないんですよ、私たちが。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりになりますように」ってね。主の働きはもう私たちのうちに来ているんだから、あとはもう、「はい! どうぞそうなさってください」と同意する。それだけです。なんか、2021年は、そういう聖母の「フィアット」、「お言葉どおりになりますように」を生きる年にしたい。オッケーです、どうぞわたしになさってくださいっていう、その信頼、喜びを生きる年。
今日は前東京教区長の岡田大司教さまのためにこのミサを捧げています。おととい亡くなりました。ペトロ岡田武夫大司教さま。私は、神学生のときに司牧実習で柏教会に派遣されたんですけど、そこの主任司祭でした。ぼくにとって岡田神父は、ひとつの模範というか、モデルなんですね。神学生にしてみれば、教会のことまだよく知りませんから、派遣された先で、「神父って、何してんだろう」「どういうふうに働いてんだろう」と、観察するわけですね。土日はもちろん、休み中も泊まり込んでずっと一緒に暮らしました。
ひとことで言って、あの人、ほんっとにやさしい人なんですよ。皆さんはどういう印象をお持ちでしたでしょうかね。おとなしそうな、いつも難しい顔をしてぼそぼそしゃべる人(笑)、みたいに思ってたかもしれません。私に言わせれば、ほんっとにやさしいんです。あんなにやさしい人、いるだろうかっていうくらい。やさしすぎて誤解されることもあったんじゃないかな。人から相談されても、「う~ん、う~ん」って言ってるだけで、なかなか答えないんですよ。はたから見てると、聞いてんのかなってふうに見えるんですね。で、神父さんが黙りこんじゃうんで、相手はなんとなくあきらめるんですね、そのうち。だけど、帰ったあとも、ずっと考えてるんですよ、「う~ん、う~ん」って。で、ぼくなんかを相手に、「いやあ、そう言われてもなあ」とかってつぶやくんです。だけど、だいぶたってから、ちゃんと答えるんですよ。そこはホントに、ていねいなんです。私みたいにその場でさっさと適当に返事するのと、全然違う。あの誠実さ、あの忍耐。
一つだけエピソードを語るんなら、柏教会で何度かお金が紛失してね。ちょっとしたスキに手提げ金庫から盗られたこともある。で、ある信者が犯人として浮かび上がったんですね。これ、タイミングからいっても、いろんな状況証拠からも「絶対、あの人だよね」っていうのを、何人もがそう思ったし、ぼくもそう思った。で、疑い始めると、その言動がますますそう見えるんですよ。だから、本人に問い詰めようって話になって、私が代表して岡田神父に相談したんです。すると、「いやぁ、実は私もそうじゃないかと思ってた。確かに怪しいし、そう見える。う~ん、でもなあ、そうは言ってもなあ、そうじゃないかもしれないしなあ、う~ん」って、いつものように煮え切らないんですね。ぼくはもう、誰が考えても絶対そうだって思ってましたから、「教会のためにも、本人のためにも、ちゃんと聞いたほうがいいですよ」とかって言ったんですけど、「う~ん」って考え込んで、しまいにこう言うんですよ。「う~ん、だけど、あの人も色々大変なこと抱えて苦しんでるんだよ。たとえあの人だとしても、本人のせいだけだとも言えないんだよなぁ。う~ん」とかって。いやいや、なんてやさしい人だろうって思いました。「そんなこと言ってたら、『どうぞ』って言ってるようなもんじゃないですか。またやるかもしれませんよ」って申し上げたんですけど、「う~ん、う~ん」で、まあ、その話はそれで終わったんですけど。
ところが、だいぶ経ってから、警察から連絡があって、「ある泥棒を捕まえたんだけども、柏教会で何度か盗ったって言ってます」って。もちろん、教会と全然関係ない人。それ聞いて、岡田神父さんと顔見合わせましたよ。あの疑った信者さん、濡れ衣だったわけです。疑って悪かったなぁっていう話ですけど、仮にあのとき「あなたが盗ったんじゃないの?」なんて問い詰めたらどんなに傷ついただろうと思うと、なるほど、「う~ん、う~ん」って言ってるのもいいなあって。彼はやがて司教になって、それこそ、ありとあらゆる問題を抱えて、日々うなり続けることになりました。ある大きな問題で苦しんで、見る影もないほどやつれちゃったこともある。
今日、ご葬儀を待たずにご遺体は火葬されます。コロナ下では、陽性検査せずに亡くなるとすぐに火葬されちゃうんですよ。後でお骨での葬儀ミサ、ということになります。困難な時代の東京教区長、ほんとに忍耐、忍耐、また忍耐だったと思います。私なんかもやさしく見守ってくれた恩人ですし、東京教区を導いてくださった司教さまに、心を込めて今日のミサを捧げたいと思います。
司教を引き受けるのってね、めちゃめちゃ大変なことなんですよ。どれほど大変かは、やっぱりそばで見てないとわからないってところもあります。岡田司教さん自身は、どう思われたんでしょうね、「司教になれ」って言われたとき。
彼は、「お言葉どおり、この身になりますように」って、引き受けました。
2020年12月20日録音/2021年1月24日掲載 Copyright(C)2019-2021 晴佐久昌英