待降節第3主日
カトリック上野教会
第一朗読:イザヤの預言(イザヤ61・1-2a、10-11)
第二朗読:使徒パウロのテサロニケの教会への手紙(一テサロニケ5・16-24)
福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ1・6-8、19-28)
ー 晴佐久神父様 説教 ー
先週の日曜日、はやぶさ2号君、帰って来ましたね。6年前に小惑星リュウグウに向かって出発して以来、みんな祈るような気持ちでその帰還を待っていたわけですけれど、ついに帰って来ましたよ。ちゃんとおみやげ持って。「リュウグウ」から帰って来たってことで、そのおみやげはよく玉手箱に例えられるんですけど、「サンプルリターン」てやつですね。遠い小惑星まで行って、弾を打ち込んでクレーターを作って、小惑星内部の砂や石のサンプルを持って帰って来たんです。凄くないですか? 感動します。
何でそんなことするかっていうと45億年前に太陽系出来た時に、地球や火星が出来ましたけど、大きな天体はみんな高温だったんで、星の材料が熱で変化しちゃってるんですよね。でも、小惑星ってのは初期に出来た頃から、冷たいまんまで宇宙を漂ってるんで、太陽系の創成期の情報をしっかり持ってるってことで、まさに「開けてびっくり玉手箱」なんです。何が入ってるか、わくわくしませんか。
はやぶさ1号のときも相模原のJAXAに行ってはやぶさ君の模型を見学したりしましたけど、1号は流星になって燃えちゃいました。ところが、今回のはやぶさ2号君は、また行っちゃったんですよ、別の天体に。今度はもうワンウェイミッションですから、行ったきりです。燃料が切れるまで、さまざまな情報を送ってくるだけで、あとは宇宙の彼方へと。何だか切ないというか・・・。でも、もしかするととんでもない大発見をするかもしれませんよ。
宇宙。神がお造りになった、この果てしない大宇宙。人類恐るべしですよね、その宇宙を隅々まで調べ上げて、何かを発見しようとしてるんだから。だけど、ぼくたちは何で宇宙を調べるんですかね。何を見つけようとしてるんですか。調べれば調べるほどその神秘に打たれるわけですし、調べれば調べるほど、じゃあそもそも宇宙はなぜなんのために出来たのかって思うわけですし、それは究極的には「人類はなぜ誕生したのか」っていう質問にたどり着くわけです。詩編にありますよね、「あなたがお造りになった月と星を眺めて想う。人とは何ものか。なぜ人の子を顧みられるのか」。確かに、月や星を眺めていると、「一体、人間って何だろう。宇宙って何だろう。宇宙の中に人間が存在するって、どういう事だろう」って、思わされます。
その答えは、はっきりしています。人間は、この天地の創造主を知るために存在してるんです。最後はすべて、神の愛にたどりつくんです。逆に言えば、最後にたどりつくその何かを、「神の愛」と呼ぶんです。科学が宇宙を調べ上げているのは、全宇宙を愛して生んだ、産みの親を探してるっていう事なんでしょう。はやぶさ君も、もうすぐ大発見するかもしれない。宇宙の創造主の無限の愛を。
ところで、はやぶさ君が行ってきたその小惑星のあたりが流れ星のふるさとだって知ってますか。私は隕石とか大好きなんですけど、隕石って、実をいうと小惑星帯から来てるんですね。小惑星由来の石ころが宇宙を無数に漂っていて、たまたまそれが地球に落ちてくるのが流れ星であり隕石なわけです。で、隕石好きとしては見逃せない、有名な習志野隕石の展示をやってるんで、先週、上野の国立科学博物館で見学してきました。
習志野隕石、ご存じでしょう? 今年の7月2日の午前2時に大火球が南関東を通過したんですね。火球っていうのは流れ星のでっかいやつです。南関東を、西南西から東北東に向かって流れて、7秒間光りました。明るさは満月よりも明るかったようです。それがですね、今はアマチュアの天文家や研究者たちが全天に向かって二十四時間体制でカメラ向けてますから、SonotaCo Networkっていうんですけど、この火球も多くのカメラに捉えられていて、そうすると宇宙のどこから飛んで来て、どれくらいのスピードで、どのあたりに落ちたかまで判るんですね、今は。
この大火球も軌道計算の結果、千葉の習志野から船橋のあたりに燃え尽きずに落ちてるはずだってことで、その辺の住民たちが探したんです。ある住民が隕石が落ちた夜大きな物音を聞いていて、翌日、自分が住んでるマンションの共用廊下に石ころが落ちてるのを発見しました。最初は気にも留めてなかったんですけど、ニュースを聞いて気になり調べてもらったら、それが7月2日の隕石だってことが分かったんです。表面とか調べれば、落ちてきた日まで分かりますから。これは習志野隕石第1号って呼ばれています。さらに、船橋の方に落ちてたのも見つかったけど、これは二十日後くらいに見つかったんで、雨にあたって錆びてるんですよ。第1号は錆びてないんです。マンションの廊下に落っこったから。黒々光ってるんです。ちょっとこのできごと、感動しませんか? ・・・え、私だけ?(笑) 凄くないですか? どこから飛んできたかっていうのがわかっている隕石の実物が発見されるのって、日本ではもちろん初めての事です。
その隕石は計算の結果、太陽の周りを、近い処では地球と金星の間、遠い処では火星と木星の間の楕円の軌道を、おそらくは何十億年もぐるぐる回ってたことが分かってます。何十億年もですよ。それが2020年7月2日、たまたま地球に巡り合って落ちてきたんです。ロマンとかを通り越して、神の摂理を感じます。小さな隕石が、人類に何か語りかけているのが聞こえませんか。ちなみに、この習志野隕石は、計算の結果、もっと大きな本体があるはずだっていうんです。それがどっかに落ちてるはずだっていうんで、習志野か船橋辺りを探してる人たちもいます。私もそのうちリュック背負って出かける予定です。この習志野隕石、1号と2号の両方とも、今日までですけど、国立科学博物館に展示されております。先週見に行って、まあよくぞここでお会いできましたねって、思わず手を合わせちゃいました。
今日の福音書でヨハネの証しについて書かれておりますけども、そのテーマのひとつは光なんですね。集会祈願をもう一度見てください。今日は喜びの主日ですけれども、その喜びの本質として、我々は光に満たされている、光を受けている、そういう喜びなんです。「父である神よ、あなたは暗闇に光をもたらし、悲しみを喜びに変えてくださいます。ここに集うわたしたちの心に信仰と希望の光を注いで、主キリストを迎える喜びで満たしてください」。美しいですね、この祈願。天の父が、暗闇に光をもたらし、私たちの心に希望の光を注いでくださる。まさに、光って存在の本質です。光の大爆発が物質を生んだのであって、宇宙に光がなかったら只の暗闇です。
地球もまた、ずーっと太陽の光の中でこの50億年過ごしてまいりました。おかげさまで命も生まれました。おかげさまで今朝も目覚めればお日様が光ってました。おかげさまで、この聖堂にも美しい光が窓から射し込んで、我々の心にも神の光が射し込んでまいります。そもそも、光は人間が造ったんじゃない。初めからあるものだし、それは人間たちを照らすため、喜ばせるためにあると言ってもいいものだし、現に今こうやってモノが見えてる、それだけでも、すでに神からのメッセージでしょう。そんな光に満たされて自分たちが存在してるんだっていう事を、僕らは普段は忘れている。だから、この喜びの主日に祈るんです。「あなたは暗闇に光をもたらし、悲しみを喜びに変えてくださる」と。「わたしたちの心に信仰と希望の光を注いでくださる、その喜びでわたしたちを満たしてください」と。そう祈ります。
そんな思いで今日の福音書見ると、洗者ヨハネとはどういう方であるかっていう事を福音書は語ってるわけですが、「彼は光について証しをするために来た」(cf.ヨハネ1・7)、つまりイエス・キリストこそが光だと。ってことは、宇宙創造の初めから、イエス・キリストという光は光り輝いているし、それを人類がその目で見る事ができるようになったのが、クリスマスだってことですね。その光によって、我々は救われる。暗闇に注がれる神からの光こそが私たちの希望であることを、イエス・キリストによって我々は知る。洗者ヨハネはそれを証しするために来たんだと。
今日の朗読は8節から19節まで飛んでますけど、8節の次の9節にはこうあります。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」。うれしいですね、すべての人です。いつの時代であれ、どんな状況であれ、コロナに苦しんでいようが、すべてを越えて、すべての人が永遠の光に照らされているんです。ヨハネはその光を証ししているんです。
神はよく光に例えられますけど、本当は違うんですね。神は光の源であって、光はイエス・キリストなんです。神が太陽で、太陽光線がキリストみたいなもんですね。太陽そのものには触れる事もできないし、直接見る事も出来ない。でも、太陽光線があるからぼくらはものを見ることができるし、あたたまることができるし、太陽に向かって感謝して手を合わせる事もできる。それは、目に見える光のおかげなんですよ。神ご自身は、我々からはもう到底直接見る事のできない神秘そのものです。愛そのもの、命そのものですから、見る事なんかできない。だけど、そこから溢れてくる光を見る事はできる。それでぼくらはキリストに会って感動するし、その源に感謝するし、暗闇に光が注いだこのクリスマスを本当に心から喜んで迎えるわけですね。
みなさんの心にキリストが、希望の光が来てますか。その光に気付かなくても、ちゃんと太陽はあります。あるんだけど、そこから溢れてくる光に気が付かなければ、私たちは闇の住人になる。この不安な時代にね、ここに集まったみなさんもいろんな問題抱えて大変でしょう。で、もっと大変な人は、実はここに集まることすらできずに苦しんでます。昨日もおとといも、そんな方々にお会いしました。どう励ましていいかもわからないような現実があります。でも、私たちは、どんな状況であろうとも、この宇宙の神秘の一番源に神の愛があって、そこから光が溢れてきて私たちを満たしているんだという、その事実、その真実から絶対に離れちゃいけないんです。一番困った時、怖れた時にこそそのような光の神秘に想いを馳せなきゃならないしヨハネ福音書が語っているのはそこのところです。
今ここに、希望の光は、確かにあります。この聖堂にも、今日もまたこうして高窓から日の光が射し込んで、祭壇の上できらきら光が輝いていて、これ、ミサを司式していても、とても気持ちいいんですよ。コロナが終わって換気しなくなったら、また窓閉めちゃうでしょ、残念な気もしますね。この、光射し込む窓だけ開けとくってのもいいかもしれませんね。綺麗ですよ、やっぱり。太陽からの直接の光ってね。だけど、考えてください。我々の心には、そんな太陽の光どころじゃない、もっと偉大で聖なる、天の父の愛の光が注がれているんです。たとえそれを否定しようとも、どんなに心を閉ざそうとも、現に注がれてるんです。本人が気づかないって事はありますよ。もったいない事に。でも、注がれているんです。それはもう感動するべきでしょう。
7月2日に空を見上げなかったのは残念でしたけど、実は私、この大火球っていうのを見た事あるんですよ。15年前の受難の主日の前夜、高円寺教会の聖堂で、深夜祈ってたんですね。ちょっと色々あって悩んでもいたし、まあ、考えてもしょうがないような事なんだけれども、真剣に祈っていて、さあもう寝ようと聖堂出た途端に空でピカーって光ってね。まあ、凄い火球でした。ストロボみたいに青白く光って、オレンジ色のしっぽが伸びて、全体がバラバラっと砕けて最後にもう一度光って。それはなんだか、啓示に感じたんです。とても美しい希望に見えたんです。暗い聖堂で、怖れを抱えて祈っていたその心に突然降ってきた励ましとして受け止めたし、もう一度始めようっていう勇気をもらいました。忘れられません。あれはもう、今まで見た中で最大の火球でした。
その事はもう、私のことですから当然次の受難の主日の説教で話したわけですけど、それは出版されている私の説教集にそのまま載ってます。「希望はここにある」っていう説教集ですけど、そのあとがきにまで、その火球の事が書いてあります。「その火球を見たおかげで、ぼくは希望を取り戻せた。それは事実だし、そしていま現実に希望はここにある。それでこの本のタイトルは『希望はここにある』にした」なんてことをあとがきに書いてる。この本、もう絶版になってんですけどね。ぜひ見つけて読んでください。
ところがですね、これはびっくりな話なんですけど、つい先週秋葉原のブックオフっていう中古の本屋さんに初めて寄ってみたら、宗教のコーナーに、私の本が一冊置いてあるんです。誰だ、オレの本をブックオフに出したのはって(笑)、一瞬思いましたけど、まあ、多くの人の目に触れてもらえるのはうれしいことです。で、その本が、この「希望はここにある」だったんです。美しい橙色の本でね、思わず手に取ってパラパラめくったら、なんと、「はれママカード」が挟まってたんですよ。これって、14年前の私の母の葬儀ミサのときに造って記念に配ったカードで、母の写真と一緒に「はれママ、わたしたちのために祈ってください」っていう祈りも載ってて、なかなか人気があるカードですけど、それが挟まってた。母のカードが捨てられちゃったら何だか可哀そうな気がして、買って帰ってきました。自分の本をね。まあ、安かったんですけどね、定価よりは。
で、帰ってからふと、カードが挟まってたところには何か意味があるのかもと思って読んでみたら、先ほどの、火球を見て励まされたっていうところだったんですよ。その説教のタイトルは、「安心して絶望しましょう」っていうタイトルで、どんな絶望も復活の栄光に変えられますっていう内容でした。
悩んでいる時に突然現れた火球のように、突然本屋さんではれママが現れたんで、この本は、まさに今闇の中にいる人にあげようと思って、鬱で苦しんでいる友人に差し上げました。はれママカードをその箇所に挟んだままね。
神さまの愛はいつでもどこでも満ちているんだけれども、何かのきっかけにある日いきなり、それがたとえ45億年ぶりでも、不思議なご縁できらきらっと輝いて、私たちに語りかけてきます。神さまは、確かにあなたを愛しているっていう事を、目に見えるしるしでちゃんと教えてくれるんですよ。今日のこの聖なるミサもまたそうなんじゃないですか? 宇宙の神秘に思いを馳せ、みことばが不思議なめぐりあわせで今日私の人生に届いたっていう12月13日にして頂ければ、本物の喜びの主日になると。
2020年12月13日録音/2021年1月15日掲載 Copyright(C)2019-2021 晴佐久昌英