福音の丘
                         

ぼくの手を握って

待降節第2主日
カトリック上野教会

第一朗読:イザヤの預言(イザヤ40・1-5、9-11
第二朗読:ペトロの手紙(二ペトロ3・8-14)
福音朗読:マルコによる福音(マルコ1・1-8)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

「その方は聖霊で洗礼をお授けになる」(マルコ1・8)って何のことだかわかります?
 イエスについてそう語った洗礼者ヨハネの「水の洗礼」、これは皆さんが教会で受けた洗礼とは違います。みなさんもそのとき水はかけられましたけど、それは「聖霊の洗礼」の「しるし」としての水であって、皆さんが受けているのは聖霊の洗礼です。
 ただですね、聖霊の働きはもう、どんな壁も超える普遍的な働きであって、水をかけられたから聖霊が働くわけじゃない。本質的には、すべての人が、すでに目には見えない聖霊の洗礼を受けてるんですね。神の愛によってこの世に生まれた人、すなわちすべての人が、です。ヨハネの洗礼は水をかけられないと受けたことにならない限定的な洗礼ですけど、聖霊による洗礼とは、実はもう既に神の愛によってすべての人に授けられている普遍的な洗礼のことです。そのことが、イエスキリストの到来と、その十字架と復活によって明らかにされましたし、それを福音として信じるのがキリスト教です。旧約最後の預言者ヨハネの洗礼は、限定的で相対的な洗礼。新約のイエスの洗礼は、普遍的で絶対的な聖霊の洗礼の、目に見えるしるし。つまり、イエスが命懸けで証ししてくれたのは、全人類がみんなもう受けている「天の洗礼」なんです。洗礼は人が受けるものではなく、神が授けるものです。人間の相対的な洗礼で救いが左右されるなんていうのはイエスが最も批判した律法主義であって、天の父は無限の愛によって、「聖霊の洗礼」をすべての人に授けてくださっています。
 だれもがそうして、神さまの恵みを受けて、神さまの国に生まれ、神さまの慈しみに満ち満ちた聖霊の洗礼を受けている状態であるにもかかわらず、それを知らないという「罪」に囚われて苦しんでいるからこそ、神はイエスを通してそれを知らせ、その喜びに目覚めさせてくださった。ですから、「そうか、私はもう聖霊による天の洗礼を受けているんだ」ということに気づいて、「ああよかった! なんてすばらしいことだ」と喜んだ人が、そのしるしとして、地上で水をかけられる。そういうことですね。その意味では、たとえ地上の洗礼は受けていなくても、聖霊による天の洗礼はもう受けているんですから、それを信じるならば誰でもその喜びに満たされることができます。この地上で何かつらいことがあっても、たとえ感染症になっても、みんなから排除されたとしても、「私はもう聖霊による洗礼を受けてるんだ。愛される価値のある存在だ」っていう感動、安心さえあれば、いつでも感謝と喜びを持って生きていくことができる。そういう福音に目覚めた者、それをみんなに伝える者、これが真の意味でのキリスト者であり、「目覚めていなさい」という待降節の心です。
 12月に入って、また感染者が増えてきました。いまのところ公開ミサは中止になっていませんけれども、その他の集会は再び自粛するようにというお達しも出て、確かに現実はなかなか大変ですよ。だけど、天の洗礼を受け、天に向かってぼくらは生きてるわけですから、地上の試練を一つ、また一つと乗り越えていきましょう。さきほども、「千年は一日のよう」って読まれましたでしょう? 美しい言葉です。「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のよう」(二ペトロ3・8)。聖霊による洗礼に目覚めている人達にとっては、たった一日でも主のもとで生きる千年のように尊い一日だし、千年続く艱難であっても主のもとで過ごす一日のように忍耐できる。たとえコロナが千年続こうとも、希望を持ち続けますっていう信仰の熱さを持って、この苦難の時を乗り越えましょうね。

  一週間前の日曜日に、ミサのあと千葉県の老人施設に行ってまいりました。今は普通、高齢者の施設には行けないんですけども、そこの施設は全部平屋で一階なので、庭から入ることが許されてるんです。おかげで病者の秘蹟をお授けできました。今は、直接触れられないので、綿棒で油を塗るんですよ。もう意識がなかったんですけど、お道具一式準備して、耳元で「〇〇さん、晴佐久神父です。今から、神さまから特別のお恵み頂きますよ、安心してくださいねー。さあ、油を受けましょう、もう大丈夫ですよ」と言うと、目を開けるんですね。周りにいたご家族は、「ああ、お母さん目開けた!」って驚きます。そして、「さあ一緒に十字を切りましょう、父と子と・・・」って言えば、ちゃんと手を動かして十字を切ろうとします。するとまたご家族が、「ほら、十字を切ってる!」って喜びます。そして、「アーメン」って言うと、口を開けて、「アーメン」って言おうとする。息子さんがそれを見て感動して泣き出す。こういうのって、神父にしてみると珍しいことではないんですけど、あれは、本当に美しい時間です。
 ただ、私がそういうふうにお祈りをすると、多くの場合すぐに天に召されるんですね。その方も、数時間後に亡くなりました。あれって、ほっとして、安心して逝かれるんですよ。だから、少しでもこの世で長く生きていたかったら晴佐久神父呼ばない方がいいですよ(笑)。でもね、千年も一日のような神さまのみもとで寿命を何日か延ばしたところで、大したもんじゃないでしょう。むしろ、そんなときいつも思うんですけど、意識なくしてる時って、本人はもう天国を仰いでるんですね。天の扉が開いて、懐かしい方々が待ち構えていて、「いいから早くいらっしゃい」って(笑)。それを、無理に引き戻すこともないでしょう。「安心してくださいねー」なんて言わずもがな、なんです。もう本人は神のみ顔を仰いで、最高の平安に満たされてるんだから。もちろん、まだ入っちゃいませんよ。でも、目の前で天の扉は開いてるし、あちらから光はあふれてくるしで、みなさんもどうぞお楽しみに(笑)。
 おととい、その方のご葬儀も致しました。ご遺族が、故人がその秘跡を受けたときのことを、繰り返し話してました。臨終の席って、居合わせた人はみんな緊張するもんなんですけど、秘跡を受けたお母様の安心が伝わったんでしょうね、枕もとで息子さんがポロポロ泣いておられましたよ。お母さまにとっては生涯最後の十字になったわけですけど、それを一緒に切れたわけですから。
 ただですね、何度も言いますけど、その秘跡を受けようが受けまいが、私たちはもう聖霊による洗礼を受けているんです。それを受けているというしるしとして、秘跡を受けるんです。受けたから救われるわけじゃない。救われていると信じたしるしとして受ける。そうしてキリスト者は、目覚めたものとして生き切って、最期のときは天の栄光を仰ぎみて、「ああ、信じたことは本当だった」と、そう言えばいいだけです。「神がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は何と幸いでしょう」(ルカ1・45)って聖母マリアはエリザベトから言われましたけど、僕らも神の愛のみわざは必ず実現すると、信じます。
 そのご葬儀の直前の納棺式のとき、棺に聖水をかけました。亡くなった方は93歳で、ひ孫さんがいるんですけど、なかなかしっかりしたひ孫さんで、「神父さんに質問があります」ってやってきてね、「さっきかけていたお水は、何のお水ですか」って聞くんですよ。だから「いい質問だねえ、あれは、聖なるお水って言ってね、新しく生まれる時にかけるお水なんだよ」って答えました。なので、葬儀ミサの説教でも、「さっきひ孫さんがいい質問をしてくれました、皆さんにもお話ししましょう」って言って、聖水のお話をしました。
 聖水っていうのは、神さまの力を現す特別なお水ですけど、これは実は、誕生のお水でもあるんですよ。誕生の時って、お母さんのおなかの中のお水と一緒に生まれてくるわけですし、生まれれば産湯に浸かるしで、お水が必要でしょう? 洗礼は神の子としての新しい誕生でもあるわけですから、誕生のしるしとしてお水をかけるんです。もちろん、聖霊による洗礼と言う意味では、もう既に神の子として誕生してるわけですから、そのことに目覚めたしるしとしてのお水でもあります。この世に皆さんが生まれてきた時点で、いやもう生まれる前から、皆さんは聖霊による洗礼を受けてます。そのことをイエスさまに教えて頂いて、救われた喜びに目覚めて、まるで新たに生まれたかのように感動して感謝して、そのしるしとしてお水を受けます。「救われていることに目覚めて救われる」っていうやつですね。
 さらに言えば、それはやがて真の誕生として天国に生まれていく時の、先取りのしるしでもある。だれもが天国に生まれていくわけですけど、その時に私達は本当の誕生を体験するわけです。だから、ご葬儀の時に聖水をかけるんですよ。これは聖霊による洗礼を受けている者だよ、というしるし。それに目覚めてキリスト者として洗礼を受けた者ですよ、というしるし。そうして、今本当に天国に生まれ出て行ったんですよ、というしるしとして。あれは、天国に誕生するときの、産湯なんです。
 ちなみに、聖堂の聖水って、自分はそのような洗礼を受けているということを思い起こすお水なんですね。聖堂入るたびに聖水で十字を切るのは、いうなれば再洗礼なんですよ。聖霊による洗礼に目覚めたもののしるしです。
 まあ、そんなお話をして、「それじゃあ、今日はいつにもましてたっぷりお水かけますね」って言ったら、ひ孫さんはじめ、みんなニコニコしてました。実際たっぷりお水かけましたし、火葬場でも聖水をいっぱいかけて、最後にはご遺体の額に、じゃばじゃばっとお水をかけました。なかなか感動的でしたよ。だって、考えてみたらそれってすごくシンボリックですもんね。天国に生まれ出て行く今こそ、真の洗礼を受けているというしるしなわけですから。
 主キリストが証ししてくれた、聖霊の洗礼。これ、苦しんでる人達みんなに教えてあげた方がいいって思いませんか? 悩んでいる人、怖れている人、救いを求めている人みんなに。「これからがんばって努力しないと救われないよ」とか、「洗礼受けないと救われないよ」とかいうフェイクニュースじゃなくって、「もうすでに神の愛はあなたのうちに満ち満ちている。あなたは神の子として祝福されている。神の子として、天の洗礼を受けている。安心してください」って教えてあげた方がいいんじゃないですか。だって、あまりにも今、そのような真実の福音を知らずに苦しんでる人が増えているじゃないですか。

 つい先日、NHKだったかな、「ある引きこもりの死」っていう番組を見てて衝撃受けました。独りで引きこもっていて亡くなる人、孤独死してる人が増えてるんですね。病死もあるし、自死もある。ともかく、全く孤立して引きこもってるんで、周囲からはわからない。中には、同居家族がいてさえ気がつかれずにいたことさえある。絶句します。何という、孤独でしょう。その心のうちを思うと、何というか、その番組見てて、正直きつかったです。なんとかしてあげたいっていう、おせっかいと言うか、そういう気持ちが僕の中にもあるもんだから。だってね、亡くなった方がいろいろと、日記みたいなメモみたいなのを残してるんですよ。そのメモの亡くなる前の最後の一行を、テレビカメラがはっきりと映し出すんですよ。なんてあったと思います? 「お母さんごめんね、もう叩いたりしないからぼくの手を握って」って。手書きで。切ないじゃないですか。
 家庭内で暴れたこともあったんでしょう。母親としても、手に負えなかったこともあるんでしょう。引きこもっちゃって、誰もケアできなくなっちゃったんでしょう。だけど、最後の一行見れば、わかるじゃないですか。「もう叩いたりしないからぼくの手を握って」って。助けてほしいんですよ。ほんとに救いを求めていたんじゃないですか。何で、その救いを与えられないのか。だれも、聖霊による洗礼のことを教えてくれないからじゃないですか。だれも。本人にも、家族にも。
 番組では、「社会からも捨てられ、家族からも疎まれて、当事者は二重の苦しみだ」とか言ってましたけど、本人にしてみれば、周囲に救いを求められないんですね。だって、自分は社会に役に立たない人間だから、そんな自分が社会の世話になる資格はないって思ってるんですから。自分なんかがみんなに助けてもらっちゃいけないんだと思い込む、その自主規制。いったい、だれが彼にそんなこと思い込ませたんですか。世の中全体でしょう。「まず自助だ」とか言い放つ政治家がいましたけど、お互いに助け合って初めて社会が成り立つんだし、だれだって助けてもらう価値があるってことを大前提にしないと生きていけるわけないじゃないですか。僕らだって、いつ逆の立場になるかわかんないですよ?
 それでもまだ、引きこもれる人はいいですよ。引きこもる処がない人は路上しかなくなるし、実際にそういう人が増えてます。だけど、じゃあ炊き出ししてご飯出せばいいでしょうっていう話じゃない。まず、心でしょう。引きこもってる息子にだって、お母さんずっとご飯出してたのに、彼は苦しんでるんだから。まず、心の話ですよね。非常事態宣言が出るの出ないのって騒いでますけれど、心の問題で言うなら、もうとっくに非常事態宣言出てますよ。とんでもなく危機的なレベルの、見えない非常事態宣言が出てますよ。いまこそ、キリスト者が「大丈夫。あなたはそのまんまでも価値がある」って教えてあげないと。「そのままで何もしなくても、必ず幸せになれる。あなたも聖霊による洗礼を受けている神の子なんだから。さあ、みんなで分かち合って一緒にご飯食べようよ。あなたにはその資格がある」って、誠実に寄り添って伝えてあげないと、あまりに可哀そう。

 実は、先週、引きこもりの若者達集めて小さな合宿をしました。ほんとに幸いな合宿でしたよ。もちろん、感染症対策ちゃんとした上で。コロナ下でも、工夫しながらいろんな福音的な集まりをやってきましたけど、先週のその集いはそれこそ、ほんとに天国の扉がちょっと開いたようでした。参加者の一人は、遠くから参加してくれた青年で、その彼が参加してくれたのが、なによりも嬉しかった。その彼が、みんなに自分のことを話してくれました。
 彼は、引きこもっているうちに、家族から「もう家を出てほしい」って言われて、今は生活保護を受けて一人暮らしをしています。時折近くのスーパーに行くだけの日々で、とてもさみしいと。彼、学校でいじめられていたために孤立して追い詰められて、一度は電車に飛び込んでるんですね。なんとか一命はとりとめましたけど、その時の後遺症がまだ残っていて、薬を飲み続けてます。そんな彼と最初に知り合ったのは、私の親しい牧師先生の教会です。「福音塾」という牧師たちの福音家族にいつも参加してくれている牧師で、去年、その牧師の教会で福音塾の合宿をしたんですよ。そのとき私が小さな講演会もしたんですけど、その牧師が彼を熱心に招いたんで、講演会に来てくれたんです。「先生がそれほど言ってくれるなら」と言って、勇気を出して見ず知らずの神父の話を聞きに来てくれるというほどに、この二人が信頼関係を造ってるってところがすごい。感心しました。講演会では福音家族の話をしたんですけど、彼はとても共感してくれて、そのまんま福音塾の合宿に参加したいと言い出した。お母さんがびっくりしてたようです。一緒にご飯を食べ、一緒に泊まって、別れ際にはこう言いました。「ぼくには、夢ができた。東京に行って晴佐久先生の教会に泊まりたい。他の福音家族にも会ってみたい」。
 その夢が、先週実現したというわけです。彼にしてみたら、初遠出、初東京。福音家族のメンバーに秋葉原を案内してもらったりして、ほんとに幸せそうだったし、おいしいもの一杯食べていただきました。他の引きこもりの仲間達とも、お互い初めましてですけど、一緒に食べて一緒に泊まって、ちょっとぎくしゃくした場面もあったけどそれもいい体験で、みんな楽しそうでしたよ。一人の引きこもり君が、「自分は人間関係苦手だけど、この集まりは安心していられてよかった。また集まりたい」って言ってくれました。そうだろうなと思う。こういうの、今の時代に必要不可欠な集いだと思うんだけど、どこにもないですもん。社会からはお前は役に立たないと言われ、家族にはお前は厄介だと言われたら、「ぼくなんか生まれて来ない方がよかったんじゃないか」、「生きていてもしょうがないんじゃないか」って思うの、当然じゃないですか。
 でも、そんな彼に、聖霊による洗礼を受けた人達が、「あなたも聖霊による洗礼を受けてるんだ。尊い存在なんだ」と宣言して、「ここへおいで」と誘い、一緒にご飯を食べて一緒に泊まって、「ぼく達こそは神様に結ばれた本当の家族なんだ」なんてことを言いだすわけですから、キリスト教って、ほんとに素晴らしいなってつくづく思います。
 心の緊急事態宣言下の今、一番必要なのは、間違いなく教会です。それも、聖霊による洗礼に目覚めている福音的な集いとしての教会です。もうすぐ、クリスマス。いろんな人に出会うと思いますけれども、ぜひ「教会」にお招きしましょう。そのためにも、まずは、緊急に福音家族を造らなくては。皆さんのすぐ近くに、こうしている今も、「ぼくの手を握って」って言ってる人が、必ずいます。


2020年12月6日録音/2021年1月12日掲載 Copyright(C)2019-2021 晴佐久昌英