待降節第1主日
カトリック本所教会
第一朗読:イザヤの預言(イザヤ63・16b-17、19b、64・2b-7)
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント1・3-9)
福音朗読:マルコによる福音(マルコ13・33-37)
ー 晴佐久神父様 説教 ー
さっき気がついたんですけど、こうして説教壇の交換で本所教会に来たときって、いつも前の日のホームレスのための「うぐいす食堂」の話をしてるなって思って、実はそれもそのはずで、うぐいす食堂って毎月最終土曜日なんですね。で、この説教壇の交換って、第5日曜日なんですよ。だから、前日は必ずうぐいす食堂やってるんで、それで毎回「昨日、うぐいす食堂でこんなことあったよ」って話をしてるというわけです。
昨日のうぐいす食堂も、みんな喜んでくれて、ほんとにいい一日でした。みんなの話を聞いていると、この社会を底辺からよく見てるんですね。「コロナのせいで世の中が相当荒んでる」っていう話を何人からも聞きました。炊き出しが減って、行列する人は増えていて、「今まで見たことのない光景だ」って言ってましたけど、普通のサラリーマンや主婦、学生のような青年まで並んでいるそうです。仕事をなくして食べていくことができなくなった人たち、特に今のこの国はお互いに助け合うセーフティーネットが壊れてますから、スコーンと下まで落ちて、路上で暮らさざるを得なくなる人たちが増えてるんですよ。
実際、うぐいす食堂も最近は人が増えちゃって、慌ててお弁当を増やしたりしながらなんとか昨日も配り終えましたけど、弱者がますます生きづらい世の中になってきました。ある人が言ってました。「世の中の人の、ホームレスを見る目が違ってきた。以前よりこわくなってる」と。「ホームレスは怠けている人たちで、自己責任だ」とか、「この不潔な人からコロナうつされるかも」みたいな思いが高まってるんでしょうか。その人は「俺たちは換気いいから、安全だよ」って言ってましたけど。
もしもそんなふうに、世の中が荒んで弱者に厳しい目が向けられたり、「他人のことなんてかまってられないよ。自分のことで精一杯だよ」って時代になっているとしたら、今こそ、キリスト者の出番じゃないですか。そんなときのためのキリスト教ですから。平和な世の中でみんなが恵まれてるなら、キリスト教はあんまり役に立たないんですよ。やっぱり、困ったときの、困難なときの、危機にあってのキリスト教なんであって、このコロナの年、2020年、まさにキリスト教が輝き出す年でしょう。逆に言えば、この状況で輝けないようなら、そこはもはや教会じゃない。そういう意味では、試されているときなんですね。我々キリスト者はコロナの時代に、「こんなチャンスをいただいたんだから、さあ働くぞ」って腕まくりするようでないと。それなら神さまも、「いやあ、この世に教会を造ってよかったなあ」って言ってくださると思いますよ。
うぐいす食堂みたいな福音家族のお世話してると、「これ、奉仕活動とかじゃないよね」と、「当然のことしてるだけだよな」と、つくづく思う。楽しい時間を分かち合って、神の国の喜びを体験できて、「こういうことできるのって役得だなぁ」って。だから、「コロナになっていろいろできなくなる前にうぐいす食堂始めておいて、ほんとによかった」って、今年はずっと、そう思ってました。
イエスさまが今日、たとえ話をしてくれました。「目を覚まして、ちゃんと待つ」というテーマです。旅に出る主人が
もちろん、本来は主人と一緒に働くというか、暮らすというか、それが本来です。天国っていうのは、そんな感じですね。神さまと共にいて、神さまのお手伝いもして、安心して暮らしているという。ところが、何故か神さまは「ちょっと留守にするよ」と出かけちゃう。もちろん、神さまのすることですからそれにも必ずいい意味があるわけで、ひとことで言えば、親がずっと一緒にいると子どもが自立して育たないっていうの、あるじゃないですか。だから、「初めてのお留守番」じゃないですけど、「ちょっとお母さん、留守にするからね。いい子にして待ってるのよ」って出かけるのって、親の愛でもあるんですね。さみしいけれど、我慢してママが帰ってくるのを待つ、そんな訓練をしたほうが子どもも育つわけですから。
神さまにしてみれば、子育てなんですね、この世界って。ぼくら神の子たちに、もっと成長してほしい、もっとご自分の喜びを分かち合ってほしい、そう願って育てている。そのためにも、いつまでも赤ちゃんみたいに世話しているんじゃなく、ちゃんと仕事を割り当てる。「お洋服、たたんでおいてね」とかね。「いい子にして、ちゃんと待ってるのよ」って。そしてちゃんとできたら、「よくできたわね。いい子、いい子」って褒める。子どもは得意になって、自信をつける。この世ってそういうふうに、神さまが人類に色々任せて見守ってる世界なんですね。だから我々も、ひとりで生きてひとりで苦労しているみたいな気持ちにならず、神さまが信じて任せてくれているし、ちゃんと見守っているし、最後には「よくやったわ」って迎えてくれるという、「この世は成長して楽園に帰るまでの待ち時間だ」と気づくべきです。そこに目覚めてほしいわけですよ、イエスさまとしては。
やがて必ず、神の国は完成します。これは、間違いない。誰においても。今は確かにこの世界、相当困難だし、色々問題はあるけれども、それも成長のための困難であって、一つひとつ乗り越えていかなければならない。世界が破綻して終わっちゃうとか、人生の苦しみは結局無意味だったとか、そんなことあり得ない。「2020年は大変だったけど、なんとか乗り越えたねぇ」っていう日が必ず来るんだから、私たちは今年一年をむしろ誇りに思うべきでしょう。
ぼくらはやっぱり2020年のおかげで、少し成長してると思いますよ。そこはやっぱり神さまの大きなご計画ですよ。コロナに限らず、家族のこと、病気のこと、仕事のこと、それぞれに試練もおありかとは思いますけれども、すべては神さまから任せられた人生ですから、やがて神さまの世界に生まれ出ていくときまで、信頼して、安心して、成長していかなきゃならないし、そこに「目覚めていなさい」なんです。
「目覚めていなさい」って、何に目覚めていればいいのかっていうなら、そうやっていつの日か神さまの世界に生まれ出ていったときに、「あぁ、大変な人生だったけれども、ほんとにあの日々があったから、この喜びのときが来たんだねぇ」っていう日が必ず来る、そこに目覚めていなさい、なんですね。イエスさまとしては、そういう励ましとして、このたとえをお話しくださっている。だからこそ、眠りこけているな、と言うわけでしょう。「やがて主人が帰ってきて、神の国が完成する」ってことを忘れて、今このときだけに囚われたり、この自分だけを考えたり、目の前の苦しみだけを見つめて希望を失っている、それが「眠りこけている」状態ですね。やがて生まれ出ていく世界に目覚めていないと、今だけ、ここだけ、この苦しみだけになっちゃって、気も滅入るし、荒んだ気持ちにもなるし、ホームレスに厳しいまなざしを向けたりまでするんです。
つい先日も、代々木のバス停に座っていたホームレスが殺されたニュースがありましたよね。60代の女性ですけど、終バスから始発までの間は、バス停のベンチあいてるじゃないですか。毎晩そこで過ごしてたんです。殺した人は、それが気に入らなかったんですね。レジ袋にペットボトルと石を入れて頭叩いたら、死んじゃった、と。近所の40代の男性ということですけど、とにかく気に入らないんですよ。・・・なんなんでしょうね、弱い者に鬱憤をぶつける気持ち。ひどい話だって思うでしょう? でもね、人の心の奥にそういうイライラってあるんですよ。私も、あなたも、誰もの中に、なんていうんだろう、自分ががんばってるのに、がんばってない人を見るのはイラつくだとか、あるんじゃないですか。「あたしが毎日お皿洗ってるのに、あなたは手伝ってくれない」とかっていうイライラ感? こういう追いつめられた世の中で、そういうイライラが募ってるんだと思う。「私が洗うから、あなたはゆっくりしてね」って思えば平和なのに、「今日は俺が洗うよ」って言えば楽園が生まれるのにね。目覚めてさえいれば、いくらでも平和を生み出すことができます。ぼくらは目をパッチリ開いて、試練の時こそ、イライラに負けず、やがて来る神の国をしっかりと見つめます。
確かに、主人がいないときはさみしいですし、試練の日々です。さっきの「おうちでお留守番」のたとえで言うなら、思い出しますけど、小学生のとき、母が結核で何か月か入院したことがあったんですね。母親がいないっていうのは、なかなか寂しいもので、父親なんかは、口開けば、「お母さんのいない家は暗い」「お母さんのいない家は暗い」って言うんですよ。ぼくは子ども心に「お父さんが暗い、暗いって言うと、余計に暗くなる」って思ってましたけど。父方のおばあちゃんが母親代わりにごはん作ってくれたんだけれども、天国で笑ってるだろうから言っていいと思うんですけど、あんまり上手じゃないんですよ。メニューも毎回おんなじで、「また、これかぁ」みたいな重い気持ちになる。「贅沢言うな」って言われりゃそうだけども、だって、安売りのレトルトのカレーを段ボールひと箱買ってきて、それを毎晩食べるんですよ。今でもあの味覚えてますもんね。
あの日々のわびしく、さみしい思い。それでも子ども心に、「やがて帰ってくる」「必ず帰ってくる」、そう思って、じっと耐えてました。そのおばあちゃんが、また明治生まれの厳しい人でね、怒りっぽくて、兄弟三人、姉と弟ですけど、そろっておばあちゃんが嫌いになっちゃったんですね。だから、やがて母親が帰ってきたときはほんとにホッとしましたけど、兄弟三人、おばあちゃんを嫌いなままで、あるとき、おばあちゃんに頼まれたことを三人とも無視したことがありました。それを知った父が怒ってね。「家族を大切にできないなら、家族じゃない。出てけ」って、三人とも家から追い出した。行くあてもなく、兄弟三人でうろうろして、スーパーいなげやの裏のダンボールが積んであるあたりに座り込んで、それこそホームレス気分になったのを覚えてます。日が落ちるとだんだん暗くなるし、弟がね、「もう、帰ろうよぉ」って言うんです。すると姉が、「何言ってるの。あたしたちは捨てられたのよ。帰る家はないの」(笑)って。それでも、トボトボ家の方に向かって歩いていくと、母親が外に出てうろうろしてるんですよ。そして三人を見つけると飛んできて、「もうだいじょうぶよ。お父さん怒ってないから、さあ、おうちに入りましょう」って。ほっとして涙出そうでしたよ。母親っていうもんですね。今でもね、なにかこう、「もう、だめかな」みたいな、追いつめられた思いになるときに、最後の最後には現れる母親、必ず子どもを救いにくる母親のイメージがあります。「神さまは、わが子を絶対見捨てない」みたいな。それがあれば、それさえあれば、目覚めていられるんじゃないですか。
うぐいす食堂は、今は一緒ご飯できないんでお弁当配布なんですけど、あの人たち結構せっかちで、配布時間よりずいぶん早く集まっちゃうんです。だから、寒空に待たせるのもかわいそうだなってことで、待ち時間にお汁粉造って配ったりしてます。ただ待ってるのって結構つらいじゃないですか。待ち時間をみんなで楽しく、分かち合って過ごせるように工夫するのって、なかなか楽しいもんですよ。昨日は、私の若い友人がやってるキッチンカーに来てもらいました。これ、去年の全国キッチンカーグルメ選手権で金賞を受賞した、「ロケットチキン」っていう名物を提供するキッチンカーで、これが、中はふわふわでジューシー、外はパリッとしているめちゃめちゃおいしいチキンのから揚げなんです。カップにたっぷりのタルタルソースと、揚げたてフライドポテトをそえて、「お弁当できるまで、これを食べて待っててね」ってふるまったんですよ。
みなさん、喜んでね。「こんなおいしいの食ったことない」「揚げたてはうまいなぁ」って、パクパク食べてくれました。友人に「このタルタルソースおいしいねえ、何が入ってるの」って聞いたら「企業秘密です」って言ってましたけど、この彼、いいやつなんですよ。昨日もボランティアで、全部寄付の無料提供ですよ。「どんどん召し上がってください、何十人分でも用意してきたんでだいじょうぶです。みんなの喜ぶ顔が見たくてキッチンカーやってるんで」とか言うんです。これって、「目覚めている人」なんじゃないですか?
本所教会のみなさんも、いつもいろんな食材の寄付、ありがとうございます。おかげさまで、昨日は頂いた缶コーヒーが六十本あったんで、大きな鍋であっためて配ったら、それも大人気でした。あったかいコーヒーに、おいしいから揚げとポテト。そうして最後にみんなでお祈りしてから、お弁当配布です。昨日は松茸ご飯をお配りしました。まあ、松茸って言っても、よく見るとエリンギなんですけど、(笑)松茸のお吸い物の粉末で味と香りをつけるんです。いや、結構いい香りでね、おいしいんですよ。みんな本当に幸せそうな顔で、「ありがとう、ありがとう」って、「また来月ね!」って、出発していきました。来月はクリスマス、プレゼントを用意するんで、楽しみです。
この世界って、天国に行くまでの待ち時間なんです。待ってる間、どうすごすかなんです。お互い助け合って、奉仕し合って、どうやって楽しく過ごすか。だれもが神さまのみもとに集まる日が必ず来るんだから、その日まで何があろうとも希望をもって、わくわくしながら、工夫しながら、おいしいものを分かち合って過ごします。どんなこの世の困難も、いつか過ぎ去りますから。そうしてやがて天に生まれ出ていくときは、究極の母親が迎えに来てくれますよ。「もうだいじょうぶよ。さあ、おうちに入りましょう」ってね、その日をほんとに楽しみにして。
2020年11月29日録音/2021年1月5日掲載 Copyright(C)2019-2021 晴佐久昌英