福音の丘
                         

わたしの話を聞いてほしい

王であるキリスト
カトリック浅草教会

第一朗読:エゼキエルの預言(エゼキエル34・11-12、15-17
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント15・20-26、28)
福音朗読:マタイによる福音(マタイ25・31-46)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 今日、11月22日、なんの日かご存じですか。「いい夫婦の日」だそうで、まあ、語呂合わせですね。この日に合わせて実施されたアンケートのことを、ニュースで紹介していました。コロナの自粛で夫婦が家に一緒にいる時間が長くなった結果、夫婦の仲が良くなったか悪くなったかっていう調査なんですけど、結果はどっちだと思います? リモートワークだとか飲み会自粛だとかで、夫婦がある意味強制的に一緒にいざるを得なくなったわけですよね。そうすると、夫婦仲が良くなったのか、悪くなったのか。さて、どっちでしょう。「悪くなる」と思ったなら、お宅がそういう夫婦なのかも。(笑)実は、圧倒的に良くなってるんですよ。数字で言えば、「悪くなった」の、三倍です。
 で、その理由は、「よく話し合うようになったから」なんですね。逆に言えば、それまでコミュニケーションが足りなかったってことでしょう。一番近くにいるのに、ちゃんとわかり合えていなかったってことでしょう。夫婦って言っても、一緒に暮らしていて、すぐそばにいて、おんなじ冷蔵庫を開けていればわかり合っているかっていうと、実は本当のところを全然知らなくって、「いつもあたしのアイスを平気で食べちゃう。優しさが足りない」とか、そんなことで気持ちがすれ違っていく。ちょっと話し合えば、「なんだ、そんなふうに思ってたのか。知らなかったよ、ごめんね」ですむんだから、まずはもっとゆっくり、本音で話し合えってことですよ。ちゃんと話し合う時間を、無理にでもつくるってことが、大事。その意味では、今年はいわばコロナによる強制対話実践みたいなことになっちゃって、でもそのおかげでいろいろ話し合えて、「なるほど、そう感じてたのか」とか、「まあ、そんなに大変な思いをしてたのね」とか分かり合えたんじゃないですか。お互いに相手の思いを何も知らずに、イライラしたり誤解したりしてたら、そんな無駄なことないわけで、よ~く話し合いましょう、と。
 ということは、教会なんかは、逆にコロナでミーティングが減ってますから、コミュニケーションが足りなくなってるんじゃないですか。気持ちがすれ違ったり、ぎくしゃくすることが増えてるんじゃないですかね。だいじょうぶですか。きちんと話し合う機会をちゃんと作って、お互いに本音で語り合ったり、受けとめあったりしていないと、仲が悪くなってしまう可能性が十分あるってことです。

 イエスさまが、なんだかこわいことを言ってますね、「呪われた者ども」(マタイ25・41)とか。こう言われると、「じゃあ、私は右なのか、左なのか」って気になりますよね。「羊を右に、山羊を左に置く」(マタイ25・33)。で、右の人には、「よくやってくれた。」左の人には、「何もしてくれなかった。」でも、「いつしなかったですか。」って言うと、「おまえたちは飢えている人、渇いている人、旅をしていた人、裸の人、病気の人、牢にいた人、そういう人になにもしてくれなかったじゃないか。あれは私だったんだ」って言うわけで、言われた方としては、「え、あれが王さまだったんですか。早く言ってよ。知ってれば、やったのに。」って言いたくもなるんじゃないですか。
 でも、ここでイエスさまが言いたいのは、そう言われたからやるとか、決まりだからやるとかじゃなく、最も困ってる人、助けを求めている人のうちに神さまがおられるっていうことで、そこを何よりも強調したかったんでしょうね。「やったか、やらないか」以前に、「本当に困っているこの人のこと、その人の思いを、あなたは知ってますか」と。「助けを求めている人が、すぐ身近にいるのがわかってますか」と。
 もしかすると、夫婦なんて、一番身近で、最も助けを求めている者かもしれないね。一緒に暮らしてるはずなのに、わかってない。あるいは親子とかね、なんでもわかってるつもりだったのに、我が子が今、何に飢えているのか。何に渇いているのか。何を求めているのか。どんな思いで、どんなふうに苦しんでいるのか。あるいは、それこそ、まるで牢に閉ざされたような気持ちでいるかもしれない。こういうこともやっぱり、ちょっと時間かけて、ゆっくりと相手の話を聞かないと、よくわからなかったりする。ただ水出しゃいい、飯出しゃいいってもんでもないですよね。
 つい先週、ついに「最寄りさん」に、特別給付金の十万円が給付されました。いやもう、本人も喜んでましたけど、私のほうが喜んだかもしれない。「このゲームに、ついに勝ったぞ!」っていうような気持ち。ゲームだなんて、言葉は悪いですけど、ホントに超難問だったんです。「最も身近な、戸籍上は死亡扱いになっている路上生活者に給付金を国から出させて、本人を路上から脱出させるゲーム」とでもいうような。何か月もかかったし、とっても嬉しかったわけですけども、その最寄りさんに、「今度、関わった人含めて、教会で小さなお祝いをやりましょう!」って言ったら、あっさりと断られちゃいました。「俺は、そういうの苦手だからなあ」って。言われりゃそうですよね。こっちがいくら嬉しくて、さあお祝い会だ、おめでとう、乾杯! なんて盛り上がっていい気分になっても、本人が気後れしていて、苦手なことを我慢して、こっちに付き合わせていることになっちゃったら、本末転倒ですから。こういうのって、やっぱり、親しくてもちゃんと話し合わなきゃなりませんよね。じゃないと、こっちはよかれと思ってしているのに、あっちの気持ちとすれ違っていく。
 最も小さい者は、家の中にいるかもしれない。近所にいるかもしれない。いろんな思いで苦しんでいる人は、すぐそこにいる。でも、「それじゃあ、お着せしましょう」「ぜひこれを食べていただきたい」と、そりゃあそれでいいように見えても、相手が本当のところは何を求めているのか。本音ではどうしてほしいのかを知らないと、ただの押し付けになってしまう。もしかすると、「そんなものはどうでもいいから、私の話を聞いてほしい」って思ってるのかもしれない。そういうすれちがいって、いっぱいありますよ。

 私のところに面談で相談に来る人、いっぱいいますけども、一回90分って決めているんですね。聞いてると、うちの旦那がどうとか、子どもがこうとか、病気のこと、職場のことって話し始めると、話が長くなるんですね。こちらとしては、相談に来たわけですから、何か福音的なことを答えようと思うんだけれども、ずーっとしゃべってる人って多いんですよ。「ああそうですか」「大変でしたね」なんて聞いてるうちに60分経ち、70分経ち、80分くらいになったときに、さすがに「あの、お話し中すみません」って、言葉さしはさんで、「もうすぐ時間なんですけど、私からも少し福音をお話ししましょうか」って言うと、「まあ、すいません、どうぞお願いします」とかっていうことがある。だけどあれ、遮ってよかったのかねぇ。中には、実は相談って言っても、アドバイスや励ましが欲しいっていうよりも、そんなつらい思いをしてるっていうことを誰かに受け止めてほしいだけだって言う人もいるだろうし。「相手が何を求めているんだろう」っていうことがわからないと、「この最も小さな一人」が目の前にいて、たとえ実際に水一杯出したとしても、本当のところがわかってないってことがあり得るっていうことですよ。
 最も小さい者の一人にしてくれた、してくれなかったってありますけれど、「最も小さい者って、誰?」って、わからないなら、それは実はすごく身近にいるはずです。もちろん「世界中で最も小さな人は誰だろう」って考えて、エチオピアの内戦で苦しんでいる人のことを思ってもいいんですけど、まずは、「この自分が関わっている、身近な人たちの中で、最も小さな者」でいいんじゃないですか。わざわざ遠くまで、小さな者を探しに出かけなくても、私が関わっている、よく知っている人なのに、実はとても小さな者、つまり分かってもらってない人が、必ずいますから。そこにこそ、イエスさまがおられて、その方とちゃんと出会って、改めて関わると、神さまに出会って、神さまに関わることになる。ぜひとも「自分の一番身近な、最も小さな者って誰だろう?」って考えて、いきなり「これを差し上げよう」とかじゃなく、まずは、その話を聞く。何を思っているかをちゃんと知る。そうでないと出会ったことにならない。

 「牢を訪ねてくれなかったからだ」(cf.マタイ25・43)って、さっきありましたけど、三日前に牢を訪ねてきました。医療刑務所なんですけど、一人の拒食症の女性の話を、じっくりと聞くことができました。ちゃんと聞けば、ちゃんと話してくれます。
 彼女は、「自分は今まで母親のために生きてきた」って言うんです。母親がどうしたら喜ぶかっていうことだけを考えて、生きてきた。子どもの頃からそうだった。だからとてもいい子にしてきたし、習い事もちゃんとやってきたし、しまいには結婚するときも、「この人なら、お母さんが気に入ってくれるだろう」と思って、結婚したって言うんですよ。そんなの続くわけもなく、結局離婚してしまったんだけれども、そのことを母親に報告できない。お母さんに怒られるんじゃないかって怖くて。何しろ、母親の意に沿わないことをするのが生まれて初めてだったそうですから。でも行くところがないので、ついに「実家に帰っていいか」って恐る恐る聞いたら、「いつでも帰ってらっしゃい」って受け入れてくれたと。それで、もしかして自分は勝手に母親の言うことを聞かなければならないと思い込んでいたにすぎないのかもって気がつき始めた。もっとも、母親も母親で、娘がそこまで自分に合わせていい子をやってたってことに気がついてなかったってことでは、もっと親子でちゃんと話し合えればよかったんじゃないかな。
 ただ、そのお母さんが、ほどなく亡くなっちゃったんです。そこから彼女は精神的におかしくなっちゃった。つまり、今までは母親のために生きていたので、これからは誰のために生きていいのか、わからない。何をしていいのかも、わからない。「自分のために生きる」ってことができないままに、この世から消えたくなり、拒食症になっちゃった。自暴自棄で犯罪まで犯してしまった。だけど幸い、刑務所に入ったおかげでようやく、自分が母親のためだけに生きてきたことこそが、拒食症や犯罪の原因だと気づけたと。
 そこで、私、お話ししました。「あなたに必要なのは、新しいお母さんですね」と。もちろん、天のお母さんである神さまのことです。実はその方は、拒食症でやせすぎていったん死にかけてるんですね。医者もいったん匙を投げたらしい。なので、「あなたはいったん死んだんですから、ここからは生まれ変わって、天のお母さんである神さまのために生きましょう。天のお母さんの願いをかなえるために生きていきましょう。天のお母さんの願いは、とても単純です。『あなたは、そのままのあなたで安心して生きてほしい』っていうことです。『あなたらしく、自分のために生きて、幸せになってほしい』ということです」って、そうお話ししました。涙ぐんでいましたけど、とても安心したご様子で、またお話聞きに来ますって言ってくれました。
 相手のことがわからないと、逆のメッセージになっちゃうってことがあります。たとえば教皇フランシスコが「なんのために生きるかじゃない、誰のために生きるかだ」って言いましたけど、教皇はこう言ったって、ただ一方的に話しただけなら、「でも、私はお母さんのために生きてたのに、そのお母さんがいないから、もう生きる意味はない」、そう思われちゃうかもしれないじゃないですか。だから本当に、その相手が今どんな立場にいて、何にとらわれているかってことを、よぉ~く聞かないと、こっちから、これこそ福音だと思って押しつけたところで、それは、最も小さい者に寄り添ってることにならない。
 実はその彼女だって、今は刑務所の中にいますけども、もとから「お母さんの願い」っていう牢の中にずっといたんですよ。そこから救い出してあげることができるのは、身近に出会った人がちゃんと話を聞いてくれて、そこに福音に光をあてるっていう、やり取りの中ででしょう。ぜひ、いっぱい話を聞いて、いっぱい救ってあげてほしいと思う。

 コロナ時代、自殺者が急増しています。先月ひと月の自殺者の数は、日本でこれまでコロナで亡くなった方の数を超えました。一時期減ったのに急増して、今年すでに一万七千人です。年末はそうでなくても増えるんですけど、このままだとまだ増えるでしょう。みなさんの身近に、声をかけられるのを待っている人、いっぱいいると思いますよ。来年はいったいどうなるのか。アメリカではすでに二十五万人、コロナで死んでいるんですけども、日本ではコロナの死者より自殺者が多いっていうのは、驚愕の事実として受け止められているようです。でも、実は世界的に、精神的に追い詰められている人が急増してるんですね。「メンタルヘルス・パンデミック」っていう言葉さえ生まれました。心の健康を壊すパンデミックが、始まっていると。
 これは、私たちが今奉仕するべき相手が身近に必ずいます。その人たちは、心の牢に囚われています。メンタルヘルスで病んでいる人たちは、牢に閉じ込められているし、病気だし、裸だし、さまよっているし、愛の言葉に、明日を生きる希望に、飢え渇いて、「わたしの話を聞いてほしい」と思ってます。それはすぐ近くのあの人かもしれない。目の前のこの人かもしれない。身近などなたかと、最も小さな者として、向かい合い、その話を聞く。そのようなキリスト者でありたい。

 今日、初聖体を受ける子どもがいます。わたしたち先輩たちもみんな、いったい何枚目になるのか、キリストの体を頂きます。そうしてイエスさまが来られる、それはいいんですけども、それで「あぁ、よかった」っていうんではなく、本当の聖体拝領は、最も小さな人と関わることでしょう。今日初聖体を受ける人は、「王たるキリスト」の主日に初聖体を受けたことを、生涯忘れないでいてくださいね。そうしてこれからも、生涯ご聖体を受け続けて、お友達の話をよく聞くキリスト者として成長してくださいね。



2020年11月22日録音/2020年12月22日掲載 Copyright(C)2019-2020 晴佐久昌英