福音の丘
                         

せめてちょっとでも

諸聖人
カトリック上野教会

第一朗読:ヨハネの黙示(黙示録7・2-4、9-14
第二朗読:使徒ヨハネの手紙(一ヨハネ3・1-3)
福音朗読:マタイによる福音(マタイ5・1-12a)

 



ー 晴佐久神父様 説教 ー
 

 今日、11月1日の「諸聖人の祝日」が日曜日に当たってるんですね。滅多にないチャンスですから、今日はそれぞれの守護の聖人、洗礼名の聖人に祈ってもらいましょう。普段忘れてるかもしれませんが、今日は、自分の洗礼名を心に思い浮かべて、「よろしくね」と、「守ってね」と、「導いてね」と祈り、聖人たちに様々な恵みを取り次いでもらいましょう。
 ただですね、「よろしくね」「守ってね」はいいんですけども、彼らがなんで聖人なのかっていうと、彼らはみんな苦難をくぐった方たちですね。大変な苦しみ、あるいは試練、さまざまな困難、それは殉教者じゃなくても、たとえばマザーテレサなんかは殉教者ではありませんけども、大きな苦難をくぐってきた聖人です。だから、「よろしくね」はいいんですけど、大事なことは、「彼らはぼくらのために、苦難を背負ってくれた、背負ってくれている」ってことなんです。
 もちろんその筆頭はイエスさまがそうなんだけども、聖人たちもイエスと一緒に、この私のために十字架を背負ってくれているんです。ちょうど子どもがすごく弱ってるとき、困ってるとき、お母さんが「だいじょうぶよ、お母さんがやってあげるから」っていうようなこと、ありますよね。山登りしているときに、ちっちゃい子どもが背負っているリュックを、お父さんが「重いかい? お父さんが持ってあげよう」って背負う、みたいな。子どもとしては「わ~い、よかった」って、軽くなって喜んでいるんだけども、全体としては荷物が減ったわけじゃなくて、自分の分を誰かが背負ってくれているわけですね。そんなふうに、誰かが背負ってくれたおかげで自分が救われていることを「あがない」って言うんですけど、さっき唱えた集会祈願に出てきました。
 「聖なる父よ、あなたはきょう、すべての聖人のいさおしをたたえる喜びを与えてくださいます。聖人たちの取り次ぎを願うわたしたちが、あがないの恵みを豊かに受けることができますように。」
 「聖人のいさおし」って、聖人の誉れ高い武勲、尊い働きのことで、それを「たたえる」と。で、何がその「いさおし」かといえば、聖人たちが苦難を、困難を、十字架を背負ってくれたことでしょう。それによって、私たちはあがなわれた。「あがなう」っていうのは、たとえば囚われている奴隷の身代金を払って、奴隷を解放することですね。奴隷は「わぁ、よかった。ありがとうございます」とよろこぶわけですが、そんなふうに、だれかが代わりに苦しみを背負ってくれるから、私たちはこんなに幸せに、こんなに仲良く、こうして今日という日を生きていることができる。
 よくよく見れば、社会って、そのようにお互いに苦しみを担い合うとか、背負い合うとか、時には身近な人が「じゃあ、俺が代わりにやってやるよ」とか、「それは私が引き受けるから、心配しないで」とか、そういうことでぼくらが生かされている。究極的には、神さまご自身がちゃんと背負っているし、そのしるしがイエスさまの十字架だし、それを表しているのが聖人たちの生き方だし、身近な人たちの奉仕もまたそうだし、私たちはそこに感謝するし、信頼を置きます。そして、ここが大事なんですけど、「だから自分も、誰かのために苦しみを背負おうかな」という勇気を持つ。あるいは、もうすでに背負ってる困難を、ただの無意味な困難として嘆くのではなく、「これも誰かのために背負ってるんだ。これを一つひとつ、誰かを救う忍耐として背負うことが、誰かの喜びを生んでるんだ」と、信じる。諸聖人の日は、そういう思いを新たにします。
 たとえば私の洗礼名はペトロですけど、「ペトロさん、守ってね。導いてね。よろしくね」って、まあ、それでもいいんですけども、思えばペトロも大変な困難をくぐって来たわけです。苦しんだし、絶望もした。イエスを裏切ったときなんか号泣してました。でも、復活の主に会い、主の死が自分を救う犠牲の死であることを知って、最後は、自分も人々の苦しみを背負って殉教していった。ローマで十字架に付けられたんですけど、伝承によれば、「イエスさまと同じ十字架なんておそれ多い、逆さにはりつけてくれ」と願って、逆さ十字架で殺された。その気持ち、わかりますよ。「こんなにしてもらったんだから、自分もこれくらい当然です」ってやつですよね。キリスト教の本質にそういう「聖なる犠牲」ってのがあるんです。諸聖人の祝日に「あがないの恵みを豊かに受けることができますように」って祈るのは、そのことだけは忘れちゃいけないと、そういう思いです。
 さっきの第一朗読で、「だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前」で神をほめたたえている様子が読まれました。(黙示録7・9)で、長老が「この白い衣を着た者たちは、だれか」と言うと、「主よ、それはあなたがご存じです」と。すると長老が自ら答えます。「彼らは大きな苦難を通って来た者だ。その衣を子羊の血で洗って白くした」と(cf.黙示録7・13-14)。苦難とかって、ほんとにもう目を背けたくなるような現実があるじゃないですか。内戦の地とか、難民キャンプとか行けば、もうそんなことばっかりでしょ。だけど、その、目を背けたくなるような苦難、悲しみを、イエスさまの血で洗って白くしたっていう、美しいイメージですねぇ・・・。血で洗ったら真っ赤になるはずなのに、イエスさまの血で洗うと、真っ白になる。ぼくらの希望です。
 確かに困難はある。痛いこともある。絶望したくなることもあるけれども、キリスト教の希望は、それを神さまがイエスという「あがない主」によって、もうすでに救ってくれた、きれいに洗ってくれたんだという希望です。だからぼくらは、キリストの十字架を握りしめるわけですね。「ありがとうございます」と。だからぼくらは、苦しみをお捧げするわけですね。「この悲しみ、この痛みを、主と共に耐えましょう」と。

 1日が日曜日だと、前日の土曜日が前の月の最終土曜になるになるわけですが、最終土曜日には、ホームレスの方と共にご飯を食べる「うぐいす食堂」をやってます。いつも、こっちがお世話しているようでいて、お世話されてるというか、奉仕しているようで、仕えられているというか、素晴らしい現場なんで、いつも感動するんですけど、上野教会で体験したその感動を翌日に説教でお話しするのは浅草教会なんですよ。最終土曜日の翌日は最終日曜日ですから。でも、1日が日曜日だと、上野教会で報告できるわけで、嬉しいですねぇ。
 今は一緒に食べれないので手作り弁当を配ってるんですが、最近人が増えて、でも「もうありません」って言うのもかわいそうだし、いろいろ工夫しながら、昨日もなんとか全員にお配りできました。忘れないうちに言いますけど、これ結構材料費とかかかるんで、ぜひご寄付をおねがいしますね。食材費でも食材現物でも。
 みんながお弁当もらって帰っていく姿は嬉しいんですけど、結構みんな早めに来るんですよ。そうすると待ってる時間が2時間近くなっちゃうんで、整理券配ったり色々やってますが、ただ待たせるのもかわいそうだってことで、その場で食べられるものをって、夏はかき氷を振る舞ったり、先月はあったかいおそうめんを振る舞ったりしてます。で、昨日はおしるこを配りました。昨日のおしるこは北海道の小豆と沖縄のきび砂糖と奄美の加計呂麻の塩を使った、まあ、ミネラルたっぷりな、天然のおしるこで、白玉もよくよく練って絹のようなくちどけのやつをツルン、ツルンと。食べたくなってきたでしょう? おいしかったんですよ、これが。みんな、ほんとに喜んでね、「おかわり」「おかわり」って。
 で、そのとき、一人の方がこう言ったんですよ。「いやぁ、あったかいもの食べるの、久しぶりだ!」。ドキッとしますでしょう。「あったかいもの食べると、ホッとするね」って。そんなひと言を聞くとね、胸が痛みますよ。だって、もしかしたら彼はぼくだったかもしれない。言うなれば、この人が不運を背負ってくれてるおかげで、自分は毎日あったかいものを食べてるのかもしれないじゃないですか。もちろん、あったかいものくらいね、毎日食べれるようになんとか工夫して、恵みを分かち合いたいとは思いますけど、まずは申し訳ないっていう気持ちを持つことが、初めの一歩でしょう。路上生活者のことを「自己責任だ」とか言う人がいるけど、絶対そんなこと、ないですよ。社会がそういう人たちを生み出して、不運を押しつけて、そのおかげで自分たちは楽しているんだから。社会の仕組みを変えたり恵みを分かち合ったりするのは当然のことだけど、まずは「せめて」でしょう。せめて、「すみませんね」くらい思わないと、おかしいでしょう。自分たちはあったかいもの毎日飲んでるんだから、「ああ、飲めない人たちの犠牲の上で、毎日あったかいもの飲んでるんだな」って、せめてそれくらいは、ちらりとでも思わないとおかしいんじゃないですか。
 昨日いらした一人の方は、神田のガード下で長年暮らしてる方ですけど、ついに11月の半ばで追い出されるんですって。行政から最後通牒が来たそうです。あったかい春に追い出すっていうならまだわかるけどねぇ、これから寒いってときに、ひどい話です。ダンボール三つ四つと、スーツケース二つくらいの荷物があるんですけど、追い出されたら、とりあえずそれをどこかに置いて次の居場所を探さなきゃならない。それで、「荷物を預かってくれないか」って頼まれました。もちろん、だいじょうぶですよ、お引き受けしましょう、ご安心をと申し上げましたけど、だってそれ断ったらもう人間じゃないですよ。「せめて」ですよね。せめて。運よく家があって、荷物を好きに置ける暮らしをしているぼくらは、ガード下を追い出される人の犠牲で生きてるんだから。巡り巡っての話ではあっても、「あなたに、その苦難を押しつけてるのは私」なんですよ。「いや、俺は責任がない。関係ない」って言えないんですって、この社会は。やっぱりまずは「すいません」って思うべきだし、「せめて」あったかいおしるこの1杯、当然っていえば、当然じゃないですか。
 別れ際に、「来年もおしるこ頼むよ!」って言われて、私、胸がギュっとなりましたよ。だって、おしるこ、あと一年待つんかい、と。胸が苦しくなりますよ。他の人からは、「クリスマスプレゼント、楽しみにしてるよ」って言われました。で、「何がいいの?」って聞いたら、「パンツと靴下!」・・・いや~、そうかあ、と思うわけですよ。胸が苦しくなりますよ。みなさんはパンツも靴下もはいてますし、クリスマスプレゼントにパンツと靴下がほしいなんて思わないでしょうけど、そう思う人がいるんです。じゃあ、パンツと靴下、用意しましょうって、人として当然思いますよ。「せめて」が付くんですけどね。せめて、それくらいは。そこを外したら、もう、人類社会が成り立たないというか。

 コロナで若い人たちも苦しんでて、自殺者も増えているという報道ですけど、救いを求めて来る若者が増えてますよ。教会という最前線にいて、感じます。昨日うぐいす食堂に来た22歳の学生もその一人です。
 父親が脳梗塞で倒れて失業したこともあってなんだけど、もうこの世の中の虚しい争いとか、利益追求だけの価値観っていうものがほんとにいやになった、と。何か、自分の芯になる本当のことを見つけたくて、地元の教会に行ってみたけど、「なんだかピンとこない」って言うんですね。それで、東京の割と大きな教会に行ってみたんだけど、塩対応だったって言うんですよ。地元の教会に行ってもピンとこない。大きな教会に行っても不親切な対応されて、それで普通はもう諦めるじゃないですか。でも幸い、友だちに相談したら、その友だちが福音家族のメンバーなんで、「一緒にごはん食べようよ」ってことになり、最初は先週の「ウズベク家族」に来たんです。
 ウズベク家族っていうのは、ウズベキスタンから日本に来ている青年たちと一緒に食事をする福音家族ですけど、全員イスラム教徒です。日本広しといえども、イスラム教の青年たちと一緒に、イスラムの戒律に従ったハラル食を食べているキリスト教の教会なんてないと思うんですけど、これなんかも「せめて」ですね。彼らのおかげで日本の労働の現場は持ってるんだから。教会の庭でバーベキューセットに炭火を起こして、長~い鉄串に羊の肉刺して、クルクル回して焼くんです。クミンをよく効かせてね。これがおいしい。私はほんとに毎回、このウズベク家族を楽しみにしてますけど、キリスト教の教会に、イスラム教の若い子たちが集まって、家族のようにごはん食べてるんですよ。キリスト教徒は酒を飲む。イスラム教徒は禁酒ですからコーラを飲む。いいでしょう? その彼が、そんな様子を見て感動して、「ようやくキリスト教を見つけた」みたいな気持ちになって、「ほかの家族にも会いたい」って言うんで、「じゃあ、今週のうぐいす食堂手伝って」ってことで、昨日うぐいす食堂にも来たと、そういうわけです。おしるこを作るの手伝って、みんなに配って、後片付けでせっせと洗ってくれました。
 そのあとでワイン飲みながら話してるうちに、「ぜひここで洗礼受けたい」って言い出しましたよ。ここでって言っても、ウズベク家族は浅草でやってて、うぐいす食堂は上野でやってますから、さあ、どっちで受けることになるか。いずれにしても、ごく普通の若者に洗礼受けたいって言わせる力が、福音家族の内に秘められてるってことです。たぶん、「ピンとこない」教会や、塩対応の教会に欠けているのは、福音家族なんです。路上の方たち、イスラム教の青年たちをはじめ、日本のコロナ禍で苦しんでる人たちと、「せめて」とささやかであっても関わる現場こそが、当たり前の教会です。彼は、さらに別の家族にも関わりたいって言うんで、来週の、引きこもり系の若者たちと寄り添って生きていく福音家族に誘ったら、「ぜひ来たい」と言ってました。
 昨夜、その彼がこんな話をしてくれました。
 自分が、目には見えない何か大いなるものに心を向けるきっかけになったのは、おばあちゃんだそうです。おばあちゃんは先日亡くなったんですけど、息を引き取るときに立ち会ったんですね。彼はおばあちゃんのことが大好きだったんで、おばちゃんが意識もなくして、苦しそうに、ぜぇぜぇ息をしてるのを見て、とてもつらかったようです。それで、「神がいるなら、なんでおばあちゃんがこんなに苦しまなきゃならないんだ」って、思ったそうですが、でも、そのときふとこう思ったんですね。
 「このおばあちゃんがこの世に生まれてきてくれたおかげで、自分の親も生まれた。このおばあちゃんが苦労してオムツ替えて、世話してくれたから、自分の親も育った。このおばあちゃんがいてくれたから、親もいるし、その親のもとに自分も生まれてきて、幸せに生きている。全部、おばあちゃんのおかげだ」と。
 彼はその事実を、初めてリアルに感じたわけですよ、だからそのとき、おばあちゃんの耳元で、「おばあちゃん、ありがとう」って言いました。「おばあちゃんが頑張って生きてくれたおかげで、ぼくがいる。ありがとう」って。すると、意識のないはずのおばあちゃんが、ポロポロポロッと泣いたんですって。そのとき彼は、「自分も誰かのために生きる人生を生きたい」と強く思ったそうです。それで、教会に来た、と。ですから、そんな思いに応える教会に出会うことは、彼にとって最も大切なことなんです。
 このおばあちゃん、もちろん信者じゃないでしょうけど、彼にとっての「聖人」じゃないですかねぇ。おばあちゃんも人知れず、たくさん苦しんだことでしょうし、最期の日々も苦しかったでしょうが、それは犠牲の苦しみであって、その苦しみが、孫のうちに希望に変えられて輝き出している。たぶん、この孫を福音家族に連れてきたのは、このおばあちゃんなんじゃないですか。
 「諸聖人」の祝日。守護の聖人に祈ると同時に、みなさんの代わりに苦しみを背負ってくれた、みなさんのマイ聖人を思い起こして、感謝しましょうね。そして、「私にも、せめてちょっとでも背負わせてください」と祈りましょう。



2020年11月1日録音/2020年12月1日掲載 Copyright(C)2019-2020 晴佐久昌英