福音の丘
                         

種をよく見てください

年間第15主日
第一朗読:イザヤの預言(イザヤ55・10-11)
第二朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ8・18-23)
福音朗読:マタイによる福音(マタイ13・1-23、または13・1-9)
カトリック上野教会

 皆さんの心の中に、今、平和がありますか。安らぎが、信仰が、希望がありますか。コロナの時代、心塞ぐニュースが多く、世の中は不安で、不安定で、未来が見えない。確かにそんな状況ですけれども、イエスの弟子である我々は、このような時にこそ希望を新たにいたします。救い主への信仰を深め、まことの安らぎを共にいたします。何があろうとも、天の父は、私達を愛しておられます。神の愛を心から信じて、感謝の祭儀を捧げましょう。

 この福音書を読んで、思い出す事があります。
 コロナ時代には、心の癒しにペットがいいらしいですね。実際、さみしくてペットを飼い始めたとか、自粛中もペットのおかげで気持ちが和らいだとか、よく聞きます。で、実を言うとこの自粛中、ついに私もペットを飼い始めました! その名も「コロたま」って名付けたんですけど、何だと思います? コロたまちゃん。想像つかない?・・玉ねぎです。(笑)
 玉ねぎをひと箱、頂いたんですね。でも、今は一緒ごはんの自粛中なんで使いきれないでいるうちに、芽を出しちゃったんですよ。まあ、そのまま食べてたんですけど、最後の一個だけ、なんだか食べるのが可哀そうに思って、コップに水をいっぱい張って、その上に置いてみた。すると、ちゃんと白い根が出てきたんです。昔、ヒヤシンスの水耕栽培とかやったじゃないですか。あんな風に根がどんどん伸びていくんです、コップの中いっぱいになるくらいに。で、水だけじゃ足りないだろうと、水耕栽培用の栄養剤を買って来て入れてたら、芽もどんどん伸びて、青々とした葉っぱが次々に出てきて、もう、可愛くってね。コロナ自粛中の玉ねぎって事で、「コロたまちゃん」と呼んで可愛がっておりました。
 このコロたまちゃんがね、やっぱり癒しになるんですね。朝起きたら「おはよう!」なんて挨拶してね、毎日水も替えて、栄養剤を入れ直して、日光の当たる窓際に置いたりして。ところが、やっぱりコップじゃ限界があるんですね。やがて段々元気がなくなってきたんで、このままじゃ枯れちゃうと思って、教会の庭に穴掘って植えてあげました。それが、植えたらもう、すっかり忘れちゃってね、(笑)その後どうなってんだか。
 まあ、ともかく言いたかったのは、いのちの力に感動したってこと。だって、コップに水張って上に置いただけですよ? 普通のガラスのコップ。置けば、下の部分が水に触れるじゃないですか。そうしたら、翌日からちゃんと根が出てくるんですよ。水を吸ってどんどん伸びていく。なんか、いつも刻んで食ってる玉ねぎですけど、その中には、命の秘密が全部隠されていて、ちょっとでも水に触れると、突然生き返ったかのように根が出て、葉が出て、元気に育っていく。いやほんとに、ばかみたいに当たり前の話だけれど、それを実際に目の当たりにしながら、毎日感動しておりました。毎日水あげてると、情も移るし。ま、そういいながら、今どうなってるか知らないってのもひどいもんですけど。(笑)
 ただ、これって結局、全ての命の話でしょう。玉ねぎは、段ボール箱の中に入ってるだけなら、ただの玉ねぎ。ほっとけば、やがて腐る。ところが、ひとたびコップの上で水に触れるともう、まったく違うステージに上がる。
 コロナの時代になって、随分気の塞ぐニュースを聴きましたし、元気もなくしましたし、これからいったいどうなるんだろうって心配しましたけど、世界は、すべての命は、この宇宙全体の全ては、神さまの恵みに触れています。毎日、神さまの命の水を惜しみなく受けて、刻一刻と完成に向かって伸びております。着実に伸びております。とてもゆっくりではあっても。この、コロナの日々、これはただ無意味に苦難の日々が過ぎた訳ではない。何もかも神さまのご計画のうちにあったし、これを助け合って乗り越えていく事が、全人類にとって本当に意味のある事なんです。これだけは言わせてもらいますけど、コロナなんてない方がよかった、って絶対思っちゃいけない。コロナがあった方が、むしろよかったくらいに思わなくちゃいけない。世界は、神さまが造ってるっていう事です。これはもう我々の手に負える事ではない。神さまのみ業であり、神さまのみ心を信じてゆだねましょうっていう事ですね。

 神の恵みは、まずは神のみ言葉として注がれます。今日は、そのみ言葉がいっぱい私達の心に注がれて、私達の中で根を出し芽を出し実っていくっていう事を、実際に深く体験してほしいんです。そのためにも、さっき読まれた聖書の言葉も、もう一度読み直して、深く味わっていただきたい。ガリラヤ湖のほとりで、イエスさまの周りに集まった人々のように、今、この今、主の言葉に耳を傾けて、喜びの知らせを心に深く受け止めるといたしましょう。
 まずは、第1朗読。イザヤの預言。それこそ、玉ねぎじゃないですけど、私達だって種みたいなもので、ひとたび水に触れると新しいステージにあげられるんです。み言葉の水が注がれると、ちょうど、玉ねぎから根が出て芽が出るなんて事を想像してなかったように、私のうちに、新しい命が芽生え始めます。イメージしてくださいね。「雨も雪もひとたび天から降れば空しく天に戻らない」。それは「大地を潤し芽を出させ生い茂らせ」、「食べる人に糧を与える」。そのように、「わたしの口」、すなわち神さまの口から出る神さまの言葉も、ただ語られて、それで終わりじゃない。それは、「望む事を成し遂げ」、「使命を必ず果たす」。
 今日こうしてミサに集まって、み言葉を聴いているじゃないですか。大きな恵みです。神の愛のみ言葉を読み、こうして共に説教を聴き、食べるみ言葉ともいうべきご聖体をいただいたなら、帰り道々、神さまからのみ言葉が自分の中で芽を出して育っていくのを感じながら歩いて下さいよ。その愛のみことばは、絶対に、空しくは神さまの元に戻らない。必ず、「必ず」です、実りをもたらしてくれます。
 次に、答唱詩編。今日は歌わずに、朗読しましたけど、朗読ってのもいいですね。言葉そのものをしみじみと味わえて。案外、歌ってるとメロディやら楽譜やらに気を取られちゃって、なんて事もありますよね。上手に歌おう、とか。その点、朗読は、静かに聴いていると頭の中に情景がぱあっと浮かんでくる。ことばの力ですよね。「大空に水を蓄え、地に水を注いで、麦を与えられる。田畑に水を送り、土くれをならし、夕立で地を潤して、作物を祝福される。あなたの恵みは豊作をもたらし、あなたの訪れる所に豊かさがあふれる」。いいですねえ、こういうみことば。これ、私達の事ですよ? 私達は、神さまが用意した土地なんです。そこに神様は種をまき、恵みの水を注いでくださる。
 ちょうど今、洗礼を準備してる人もいますけども、神さまから聖なる水を注がれて、私達は新しい世界へ招かれているし、新しい実りをもたらすようにちゃんと導かれてるんです。「荒れ野の牧場も若草に萌え、丘一面に喜びがこだまする」。・・見えるようじゃないですか。「野山は羊の群れに満ち、谷は小麦におおわれ、人々は喜びにあふれて歌う」。聴こえてくるようじゃないですか。喜びの世界の歌声。すべてを、神さまはちゃんと用意しておられます。我々がどんなに失敗しようと、悩んでいようと、神の恵みにふさわしくなかろうと、おかまいなしに水はどんどん降って、種はどんどん芽を出して。
 まあ、だから、色々あるけれど、あんまり嘆かず考えすぎず、待ってりゃいいんです。喜びの日を。それも、天の国に行ってからがようやく喜びの日で、それまではただ待ってるだけ、苦しみの日だけ、そんな事はない。信じて待ってると、なんと喜びの日の「先取り」ってやつが出来るんですよ。あんまりいい例えじゃないかもしれないけど、試食ってやつですね。(笑) つまみぐい? とか、やるじゃないですか。やがて本番が来て、ご馳走をみんなで食べるんだけど、ちょっとその前に、料理人がちょいとつまんで、「うん、美味い」とか、「みんなこれ食べて喜ぶぞ」とか、「本番では、これをみんなと食べて飲んで楽しむぞ」とかっていう、あのつまみぐいを僕らはしてるんです。ミサなんて、まさに天国のつまみ食い。
 だから、第2朗読、パウロは言います。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」。かっこいいね。こういう言葉に励まされますよ。まさに、「取るに足りない」んですよ。確かに、今は苦しい。それはそうなんだけれども、この「現されるはずの栄光」、これを、嬉しい事にまだ僕ら知らないんです。知らない事って、嬉しいことでしょう? 知ってたら、「そんなもんか」じゃないですか。知らないから、僕らはその喜びを知ったときに、「いや、ここまでか?!」っていう、想像以上の事になるわけで。それは、ワクワクしたらいいと思う。
 私達は、まだ種なんです。神さまはこうして、この私という種を、この世界に蒔いて下さったんであって、それは育つんです。「現れるはずの栄光」を現すために、です。種って、それ自体をいくらじーっと見つめても、種以外何も見えません。見えないけれど、でも確かにそこに、栄光が秘められてるんです。
 そういえば、おととい、頂いた桃を、たまたま居合わせた19歳にむいてもらったんですよ。「桃、切ってくれる?」って頼んだ。桃って半分に切れないじゃないですか。大きな種をよけて、削ぐように切りますよね。以前、僕がそうやって切ってるのを彼は見てたんで、それを真似して切り始めたんですけど、途中で僕に聞くんですよ。「これ、どこまで切るの?」って。意味が分からなくて、「切れるとこまででいいんじゃない」って答えると、「真ん中まで食べれるの?」って。ちょっと何言ってるかわからなくて、「種のとこまでだよ」って答えたら、なんて言ったと思います?「桃って、種あるの?」って。知らないんですよ。そういうもの? 今の十代って。(笑)びっくりして「知らないの?」って言ったら、「普通知らないでしょ」だって。いやー、今のお若い方たち、生活体験が劣化してるっていうか、大丈夫ですかね。大体、種がなかったら、どうやって桃が育つのか。
 19歳、種をよく見てください。じーっと種を見てほしい。そうして、種に秘められた輝きを思ってほしい。それは、あなたであり、私です。この、一人ひとりの尊い種の中に、どんな秘密が隠されているのかっていう事ですよ。桃の種だって、見た目は梅干しの種みたいなしょぼいものですけれど、それが桃の木に育って、桃がいっぱい実るわけでしょ? 例えば、植物を知らない宇宙人がやってきたとして、桃の種を見たら、「これ、何だろう?」ってわかんないでしょう。ただ、黒っぽい丸くて硬いもの。そこから芽が出て、木になって、実が実るのを見たら、魔法か?!って驚く、そういう事ですよね。
 皆さんは、こんな自分はダメだとか、ふさわしくないとか、才能ないとか、ツイてないとか、もっとこうだったらいいのにとか、まあ色んな事言うけれど、まだ種なんだから、いくら黒っぽい種をじっと見つめたって、何も見えないですって。皆さんの中に秘められている神さまのご計画が美しいんであって、それは申し訳ないけどあなた達にはまだ、わからないんです。わからないから、素晴らしい。そのような、将来現わされるはずの栄光を思ったら、居ても立っても居られないほどにわくわくしてもいい事だし、今がどんなに固くてつまらん種であろうが、ちゃんと水をやると白い根がすっと出てきてね、やがて大木が育っていくんだから、それを待ちなさいってパウロは言ってるわけですよ。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいる」と。「被造物もいつか、滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる」と。それは、どんな自由だろう。それがあるって約束されてるだけで、今日の試練、今日の苦しみ、パウロの言い方だと、それは取るに足らない。確かに、共にうめいているし共に産みの苦しみを味わっているけれども、私達キリスト者は、神の子という栄光の体に生まれ出て行く事を今、待ち望んでいます。
 そうして、福音書では、イエスさまから「耳のある者は聞きなさい」って言われました。ちゃんと聞きましたか? 今日、こうして神さまから招かれて、ミサに集められて、み言葉を聴いている皆さん、皆さんの中に「良い土地」が用意してあります。そこで、しっかりとこのみ言葉を受け止めましょう。種はすでに蒔かれました。それは30倍、60倍、100倍になりますし、その実りによって多くの人が希望を新たにします。

 先週、本でキリスト教に出会ったけれど、コロナ下でまだ一度もミサに出たことがないっていう人の話をしましたけど、そんなふうにコロナの時代になってから信仰に出会い、教会に行ってみたいと思うようになったっていう人も、実際にこの世界にはいるんですよね。今も、そんな一人ひとりに水が与えられて、栄光の世界がどんどんと実り始めている事に感動いたします。
 それぞれの問題、さまざまな悩み、なにかへの怖れ、そういう囚われた心を持っている方は、今日、み言葉を聞いたいま、いのちの水が注がれましたから、帰り道々、新たな芽が芽吹き始めている事を味わってください。神さまが、何かを起こし始めているって事を信じて、お楽しみに。今日、ここから、出発いたしましょう。



2020年7月12日録音/2020年8月16日掲載 Copyright(C)2019-2020 晴佐久昌英