福音の丘
                         

本当に愛するために人は死ぬ

年間第8主日
第一朗読:シラ書(シラ27・4-7)
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント15・54-58)
福音朗読:ルカによる福音(ルカ6・39-45)
カトリック上野教会

 もう3月ですねー。この説教壇で、明けましておめでとうと挨拶をして、ひと月後にもう2月ですねーとお話しして、今日は、もう3月。ちょうど、上野教会での説教が第一日曜日なので、「もう2月ですね」、「もう3月ですね」と、あっという間。うかうかしてられないですよ。そうして、あっという間に四旬節。回心の時です。今日は、この回心の方法について、具体的にお話いたしましょう。今週は灰の水曜日ですからね。
 みなさん、灰の水曜日、19時のミサに来てくださいよ。万難を排してミサに来て、灰をかぶりまようね、罪深いみなさん。回心をいたしましょう。これは、信者じゃなくても受けられますから、どなたでも受けに来てください。回心の印ですね。印ですから、灰はほんのちょっとですけどね。あるとき、灰の式の後で、ある人が私に言いました。「神父さま、私には多く灰をかけたような気がしたんですけど、特に罪深いと思ってるんですか?」(笑)私は、お答えしました。「もしそうなら、バケツ一杯でも足りない。」(笑)
 回心てね、そう簡単じゃない。今日、イエスさまが「修行」って言葉を使いましたけど、「さあ、回心しよう」、「はい、できました」、なんて風に簡単にはいかないんですよ。修行が必要。もっとも、修行と言っても、「頑張って努力して、立派な行いをしていい人になる」、というよりも、「頑張って努力して、自分の囚われを外していく」、ってことですね。付け加えるというよりは、外していくんです。それこそ、小さい頃からの恐れとか、こだわりとか、思いこみとか、怒りとか嫉妬とか、自分の中に、いろんな囚われがいっぱい詰まってるでしょ。それを取っていく。

 さっき、イエスさま、「良いものを入れた倉から良いものがでる」って言ってましたでしょ。『善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。』(ルカ6・45)って。これね、よく読んでください。「善い人は良いものだけ持っていて、良いものがいっぱい出てくる」、「悪い人は悪いものだけ持っていて、悪いものを出す」ってことじゃないと思う。善い人も悪い人も、善い倉も悪い倉も、どっちも持ってるんじゃないですか? 人は誰でも、良いものも悪いものも持ってるはずです。ただ、「善い人は、良い倉の方から良いものを出すし、悪い人は、悪い倉の方から悪いものを出す」、そう言ってるんです。お分かり?
 だから、修行というのであれば、良いものを入れた方の倉を開けましょうと。悪い方の倉からいろいろと変なものを出さないで。良いものが入った倉はみんな持ってるんだから。みんな、必ず、持ってる。ただ、その倉の扉が開いてないというか、開かないというか、漬物石みたいな邪魔なものがいっぱい乗ってて、蓋が開かなくなってる。開ければ、いっぱい良いものが出てくるのに、もったいない。しかも、良いものって、一回出したら空になったとか、そんなもんじゃない。その倉の戸は、天国に繋がる扉なんだから、そこを開けさえすれば、その向こうに神の国の大いなる世界が開けていて、ふんだんに聖なる霊が流れ込んでくる。神の言葉と御業が流れ込んでくる。そして、私から、良い言葉とか良い行いが溢れ出していく。無理して良いことをしましょうとか、頑張って立派なことを話しましょうとかしなくても、開けさえすれば、自然と溢れ出てくるんですよ。ここが、修行。

 私は大した人間ではないですけど、この修行をずっと繰り返してきたのは、良い倉を開けて口を開けて、「良いもの」が出てくるようにと願ってのことです。ですから、こうしてお話ししていても、それは単に自分の言いたいことを言っているのではなく、神が語りたいこと、イエスが語りたいこと、天にいる大勢の人々が今みなさんに語りたいってことが、あふれてきていると信じてるんです。実際、すでに天に召された大勢の方々が、愛するみなさんに語りたい、っていうことがたくさんあるんですよ。でもまあ、それを天から語るわけにいかないので、それを、私が自分の口を、ある意味お貸しして、語るわけです。説教とはそういうことです。
 説教とまではいわなくとも、みなさんも修行して、邪魔なものを取り外していけばそれが聞こえるし、語れますよ。ただ、その邪魔なものが、自分ではなかなか見えない。目の中の丸太の話をイエスさましてましたけど、自分の目の中に丸太なんか入ってませんって、普通はそう思ってるんですよ。だって、丸太が入っていたら分かりそうなもんですからね。実際、イエスさまがこのありえない例えを話した時、聴いてる人の中には、思わず笑った人もいたと思いますよ。「おい、お前の目の中に、丸太が入ってるぞ」「え? ほんとですか? 気づかなかったなあ」なんて、ありえない会話ですから。でも、それくらい気づきにくいもの。囚われとか恐れとか恨みとか嫉妬とか、あるいは自分なんかは役に立たないと思い込んでいるという、非常に低い自尊心ゆえに他者を信じられないとか、そういうものをしっかり取って、そうすると神さまからの恵みがこんな私を通しても流れ出て人を救うことすらできる、それに気づく。

 よく思い出すんですけど、以前、ある教会の建設問題で、賛成派と反対派がすごく揉めていた時期があって、あまりにもお互いに、「こっちが正しい、お前たちが間違っている」と言い合っているもんだから、ちょうどミサの福音書がこの箇所だったんで、説教でお話ししたんです。
 「みなさん、自分が絶対正しいと思っちゃいけません。自分の目の中に丸太が入っているということに気づかなければ、真の相手が見えない。だから相手を見る前に、まず自分を見なさい。そうして自分の丸太を取り除けば、本当の意味で相手がよく見える。」
 そんな説教の後で、教会委員会があって、建設問題でやっぱり対立して、しまいに非難の応酬になったんですね。その時、一人の委員がすっくと立って、対立している相手の人たちに、「あなたたちは、今日の神父さまの説教を聞かなかったのか。まず自分の目の丸太を取り除きなさい!」って言ったんですよ。私は思わず心の中で、「それは、お前だ」(笑)って叫びましたよ。「まず自分を見なさい」って言っているのに、「あなたたちは間違っている!」。分からないんですよね。自分を見るってことが。「自分もどこか思い込んでいなかっただろうか。お互いに言い分があるんだし、頭を冷やして、建設的な妥協点を見つけよう。感情的にならず、まずは自分の囚われに気づいて、反省すべきことは反省しよう」って思ってほしかったんですけど、これが難しい。

 修行っていうのであれば、人と関わるときに、まず自分の考えを述べたり、自分の説明を始めるのではなく、まず自分の中にある囚われを取り払って、良い倉の扉を開けて、自分の中にある良い思いと相手の中にもある良い思いを結ぶような、美しい言葉を語れるようになる修行をやりましょう。相手に届く言葉。正直で素直で、責める言葉でなく、誇る言葉でもなく、説明したり説得したりする言葉でもなく。
 それには、秘訣がある。神の言葉を語るんです。イエスさまに語っていただくんです。この口をお貸しして。こうして説教で話してても、私はいつも思ってます。天がみなさんに語りたい言葉は、何だろう。目の前には、辛い思いをしている人がいる、迷っている人もいる、本当に神の言葉を必要としているこのみなさんに、今、私が口を開いて何を語ればいいのか、それをこそ、胸に手を当てて、探し出す。これが福音を語るということですし、良い倉から良いものを取り出すっていうこと。

 そういえば昨日、根岸のあたりを散歩していたら真言宗のお寺があって、ふらっと入ったら、真言宗ですから空海さんの教えが書いてあったんですけど、いいことが書いてありましたよ。まず、「だれもの中に仏性がある」、と。これ、さっきの良い倉と一緒ですよ。みんなの中に、仏の性質、悟りの心というものがある。で、「それを、今ここで開いて、多くの人達と繋がって仏国土を目指せ」とありました。仏国土というのは、神の国のことですね。これ、イエスの教えと同じじゃないですか。私達のなかにすでに仏性、神の性質、良いものがある。それが邪魔されて出てこない。それを『今ここで』と、そこにかぎかっこがついてましたけど、今ここで、開く。これが修行ですね。うまくいかなくても、つらくても、今、ここで、開けるように、訓練する。だって、自分の内にそんな宝を持っているのに、下手すると一生それを出さなかったってこともあり得ますから。もったいないじゃないですか。まさに、「今、ここで」開けるようになる、それが四旬節の修行じゃないでしょうか。

 私の尊敬する思想家に柄谷行人という思想家がいると何度かお話しいたしましたけど、日本で最高の知性だと思っています。『世界史の構造』という名著がありますけど、目には見えない世界の本質を、目に見える世界の構造を解き明かしてきちんと語るという、大変格調高い文章を書く思想家です。「目には見えない神の国の、目に見えるしるし」を語るという意味では、とても秘跡的な内容だと私は思っていて、尊敬しております。この世界史の構造を受け継ぐ本が先週出ました。岩波新書で、『世界史の実験』というタイトルです。新書ですから読みやすいと思うので、ぜひ読んでいただきたい。この本、先週柄谷さんから私へ送っていただいたんですけれども、読んでびっくり、私の説教を引用してるんですよ。忘れもしない、158ページです。2005年に出した、私の『あなたに話したい』という説教集からの引用です。11月の死者の月の説教で、祖先の霊について語ってるんですけど、それが柳田国男の思想と類似しているということで引用しているんですね。
 そこで私が語ってるのは、現代において死者と交わることはすごく大切だということですけど、それも、こちらから祈るというよりは、死者の方が私たちのために祈っているという事実についてです。そもそも、天に生まれていった人たちの方が格上なわけですから、天の方々をこちらから愛するというよりは、彼らの方が私たちを愛している愛の方が強いわけです。その愛に支えられてこそ、私たちもこの世界で愛し合うことが出来るのであって、たぶん、本当に愛するためにわたしたちは死ぬんです。と、そんなような説教です。
 柄谷さんがテーマにしているのは、普遍信仰であり、普遍宗教です。それは、人類に共通の普遍的な信仰のかたちであり、全ての人々を救う普遍的な救いの力であって、彼は、柳田国男の死生観の中にそれを見出そうとしているんですね。そして、それがまさにカトリックの死生観の本質にも秘められていることに、関心を寄せているわけです。柳田国男が言うには、私たちは死んだら、大きな御霊のうちに融合していくんですね。カトリック的な言い方だと、「天の父の御許に生まれ出ていく」わけです。その御霊は、私達子孫に関わっている。純粋に一方的に。子孫が先祖を祭ろうが祭るまいが、子孫が良い子だろうが悪い子だろうが、先祖は神と一つになって、我々に働きかけている、導いている、守ってくれている、そのような純粋な愛なんだ、と。
 そのような感覚は、実は、非常に古くから人類に共通する死生観なんじゃないですかね。最近はいろんな原理主義的な宗教の教えとか、科学的な考えとかが目立っていて、そういう普遍主義的なセンスや感性が薄れてきているようにも見えますけど、本来は、人類のうちに、さっきの良い倉じゃないですけど、天国に通じる普遍的な扉が備わってるはずなんですよ。いろんな邪魔なものを外していけば、真理と響き合える力をみんな持ってるし、それを御仏と呼ぶのか、神と呼ぶのかはともかく、天の大いなる力と我々が繋がってこそ、我々はまことの幸いを生きていくことができる。
 各民族、各宗教に共通している古くからの普遍的な感覚をていねいに取り出して、そこに焦点を当てていく。そういう、歴史の実験みたいなことを柳田国男がしているし、それに光を当てて、最も扱いにくい、目には見えない天の分野にまで語り及ぶ柄谷さんのチャレンジには、本当に敬意を表します。私も本が大好きですから、30年も前から柄谷さんの本を読んできた者ですし、とりあえず物も書くわけで、そういう物書きの端くれとして、柄谷行人が岩波新書の中で、1頁近くにもわたって、晴佐久昌英という実名をあげて一次資料として引用してくれるなんて、これ、みなさんには分からないかもしれませんけど、私はその本を胸に抱いて、「キャー」と叫びました。(笑)本当、嬉しかった。でもそれは、私が何か特別に優れたことを語っているからではない。当たり前のこと、本当のことを私が語っているからです。現代の最高の知性が、普通に引用できるだけの普遍的な言葉だからです。ちゃんと良い倉の扉を開けて、良いものを出せば、繋がるんです。分かる人と繋がるし、歴史上の様々な考えとも繋がるし、あらゆる辛い思いをしている人、救いを求めている人とも繋がって、そこに神の国が開けていく。そんな力をみんな持ってます。良い倉、みんな持ってるんだから。開ければ、人を救うことができますよ。引用の最後の行に、「本当に愛するために人は死ぬのです。」とあるんですけど、この世でちゃんと愛し合えないでいる私達は、本当に愛するために、死んでいくんです。イエスさまがそうであったように。そんな大いなる永遠なる愛が、こんな私たちに、『今ここで』注がれていることを知るならば、生きる意味が変わる。それを回心というんです。

 一昨日の入門講座に来られた方、お子さまを亡くされているんですね。14歳の息子さんで、自死です。亡くなってまだひと月しか経っていません。お母さまがどんな思いで、このひと月過ごしてこられたか、分かりますでしょう。そのような方と向かい合って、何が語れるでしょうか。いうべき言葉がないというのが、正直ではないですか。私もそうです。その方も、仰っていました。精神科にも行きました。カウンセラーの所にも行きました。でも、事情を話すと、「私どもには何もできません。」と言われました、と。愛する息子です。本当に可愛くて、これからどれだけ幸いな日々を生きていくかと思って育てていたら、亡くなった。いろいろあったんでしょう。もっとああしてあげればよかったと後悔もするでしょうし、どうしてこんなことになったんだろうと意味も分からずに苦しむ。神も仏もあるものかと思うでしょうし、亡くなったわが子はどうなっているんだろうとも思うでしょう。
 私は、いつもそういう人と向かい合うとき、語るべき言葉もないと正直に思うけれども、しかし、黙っているわけにもいかない。自分の中の恐れとか、相手を傷つけるんではないかという躊躇とか、色々な思いもあるんだけれど、それらを一つひとつ外していって、最後に良い倉の蓋を開けると、そこには確かに、キリストが語りたい言葉、神さまが言いたい言葉がちゃんとあるんですよ。それは、やっぱり言わないと。「息子さんは生きています。」と。「その死は全く無意味な死ではありません。」と。「今、大いなる天に生まれ出て行って、本当に幸いな世界を生きています。」と。そして、「本当に愛していたお母さまを、生きていたとき以上に愛しています。」と。「今、こんな私を通して、お母さまに語っています。『必ずまた会えるよ』」と。私は、間違いなく、このお母さまは救われると信じます。だって、息子が天で祈ってるんですから。「繰り返し福音を聴きましょう。何度でも聴きに来てください。」と申し上げました。「それが息子さんの願いです。」と。
 『本当に愛するために、人は死ぬのです。』私は、そう話しました。それが説教集になりました。それを柄谷さんは引用して、柳田国男という人類の固有信仰にさかのぼろうとする人とつないでくれた。真に普遍的なものが、確かにこの世界の奥底にあります。特定の宗教の教えではない、真理の話です。それに繋がっていないならば、私達は恐れて、無意味にのまれて、辛いだけ。でも、必ず真理に繋がる方法はあります。
 パウロの言葉をもう一度読みます。
 「みなさん、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。』わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(cf.一コリント15・54-58)
 すごいねえ、「死は勝利にのみ込まれた。」
 「死ねば終わり」と思っているようでしたら、回心が必要です。灰の水曜日。灰をかぶるのは、あなたもわたしも死ぬっていう印ですね。それは、何の準備ですか。復活の準備じゃないですか。



2019年3月3日録音/2019年6月27日掲載 Copyright(C)2019 晴佐久昌英