福音の丘
                         

私は選ばれている

年間第7主日
第一朗読:サムエル記(サムエル上26・2、7-9、12-13、22-23)
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント15・45-49)
福音朗読:ルカによる福音(ルカ6・27-38)
カトリック浅草教会

 先週からこの祭服を使ってるんですか?・・・あ、今日が、お披露目だそうです。典礼係から、ちょっと浅草教会のカズラが古くなってきて、こう言っちゃなんですけど安物っぽいので、(笑)そろそろちゃんとした祭服を用意しましょうよって話が出て、これ、あくまでも、私が言いだしたわけじゃないですよ、(笑)典礼係のみなさんがそう言って、みんなで選びに行ったんですね。四ツ谷に。で、「これもいいね」「あれもいいね」「でもちょっと高いね~」とか選んで、そして、今日がお披露目と。なんかこう、やっぱりね、典礼って、ちゃんとするとこをちゃんとすると、ありがたみも1.2割増しというか。
 私たち、こうしてミサに集まって、ホントに一緒に安心してひととき過ごします。聖堂をきれいに掃除して、祭服も新しいものを用意して、このひととき、ホントに恵み深い天国の先取りですけど、みなさんは、こんな美しい、こんな素晴らしい恵みに与るにふさわしい存在なんですよ。そのことをどれだけわかっているか。もう少し胸はって、自分を誇りに思ってほしい。「こんな自分が」とか、「私はダメだから」とか言わず、あるいは「自分はついてない」とか、「私は見捨てられた」とか言わないでほしい。ここに、こうして集まっているということ自体が、神から選ばれて、愛されていることのしるしなんです。
 もちろん、全世界のすべてが神の愛のうちにあるんだけれども、我々キリスト者は、特別にその愛のしるしなんですよ。こうして集まっている以上、能力があるとかないとか、何も関係ない。神から選ばれて、神さまから祝福されて、一人ひとり、みんな、特別な神の子として、輝いているんです。本人がそれをわかっていようと、わかっていまいと。
 私は30年神父をやってきましたし、こうしてみなさんをずーっとね、祭壇側から見ているわけで、だからみなさんの顔がすごくよく見えるわけですけれども、一人ひとり全然違う顔ですけど、みーんな、かけがえなく輝いているって、私はいつも思う。美しい。自分ではそう思えないってことはあるかもしれませんけど、美しい。
 神は、まさにそう見てるんです。美しい、と。ミサをこうしてていねいに捧げますでしょう、ろうそくをともして、祭壇の布にきちんとアイロンかけて、美しくミサを捧げますけど、それはまさに、この私たちが神に選ばれた、神の愛をあらわす特別な神の子たちなんだということを表しているんです。聖堂が美しいんじゃない、祭服が美しいんじゃない。それを作って捧げている「私たち」が美しいんです。神は、そういうまなざしで見ている。
 毎夏、無人島の浜でミサやりますけど、聖堂なんかないし、珊瑚の岩を積んだ祭壇だし、でも、そこでミサを捧げている人たちは、本当に神さまから愛されている神の子の集いとしてそこにいるわけで、まさに、人間の美しさ、その輝きこそがミサの尊さであり、神の喜びなんです。だからこそ、救いを求める人々のしるしになるんじゃないですか。「ああ、私もこんなに美しい存在なんだ」っていうことを、みんなが知るためにミサを捧げていると言ってもいいんじゃないですか。もちろん、みなさんも日々、つらいこともあるでしょう、昨日悲しいことがありました、今日も心が塞いでます、でも、ミサのときは、自分がどれほど尊く、愛されている存在であるかということに、心を開きます。

 昨日、オペラを観てきました。「金閣寺」っていうオペラです。東京文化会館で、今日もやってるんじゃないですかね。一番後ろのE席ですけど、2,000円でした。ごらんになったらいかがですか。なかなか重苦しい作品ですけどね。
 原作は、ご存じ、三島由紀夫の「金閣寺」です。世界的にも非常に評価されている作品で、現実の出来事に題材をとった作品です。金閣寺って、戦後焼けたんですよ。若い方たちはご存じないかもしれないけれども、放火なんですね。金閣寺の小僧さんというか、修行している学僧の青年が、火をつけた。
 なぜ火をつけたのか。本当のところは本人でもよくわからないってとこもあると思いますけども、ザックリ言えば、原因はコンプレックスなんですね。彼は生まれつき障害を負っていて、原作では吃音、オペラでは手の障害にしてましたけども、ともかくその障害のゆえに大きなコンプレックスを持っていて、友人からも受け入れられず、社会からも排除され、そしてお寺の中でもちゃんと理解してもらえず、親からも本当の気持ちをわかってもらえずという・・・。
 そういうコンプレックスを強烈に抱えて、次第に追い詰められて、最後はその思いが、爆発する。彼はある時から、金閣寺と自分を同一視し始めて、やがて自分を抹消するためか、あるいは新たに生まれるためか、なんだかよくわかりませんけど、複雑な人間心理によって、火をつけてしまう。それについては原作がいろいろ書いてますし、評論もいろいろ言ってますし、オペラはオペラでまた一つの解釈をしてるわけですけれども、何が真実かなんてことは、どうでもいい。
 私が見ていて、とっても考えさせられたことがあって、それは、そのコンプレックスの本質って、一言で言うと、「自分は選ばれてない」なんじゃないかってことなんです。「自分は排除されている」とか、「自分はレベルが低い存在だ」とか、「自分は役に立たないんだ」とか、それ、すべて、「自分は選ばれてないんだ」っていうところに尽きるんじゃないか。でも、そんなの、みんな、持ってるんですよ、実をいうと。なのに、ある人はそこだけを見つめて、そのコンプレックスに閉じこもって、爆発してしまう。主人公は結局、自死するわけですけども・・・、う~ん、あまりにも切ない。音楽も、黛敏郎の現代音楽ですから、非常におどろおどろしい。美しいアリアがあるわけでもなく。コンプレックス抱えた青年の切ない舞台をずーっと観ていると、だんだん、とても重苦しい気持ちになってくる。
 もちろん、感動もあるんですよ、宮本亜門の演出ですけど、金閣寺になぞらえた巨大な正方形の金の板が、舞台の奥のホリゾントにどかんとそびえていて、時々それにパーンと光が当たると、「うわぁ」って感じに眩しくなるし、それが最後はね・・・ネタバレになっちゃっていいですか?(笑)その板が、ズズズズ、ズズズズ…、少しずつ、少しずつね、客席に向かってせり出してくるんですよ。迫力あったなあ。いやあ、かっこいい演出。そのあとどうなるかまでは言いませんけど。(笑)
 まあ、芸術ですからね、そういうコンプレックスを主題にしながらも人間の心の奥深くの闇と、そこから逃れようとする必死なパッションを、音楽と美術と芝居で盛り上げていくわけですけども、ま~でも、なんというか・・・、やっぱり、重いね。その先の救いの道をはっきり指し示さないのを「芸術的」っていうのかもしれませんけど。
 
 そんなのを昨日観て、今日はこうしてミサをしていると、これこそ、実は最高の芸術なんじゃないのって思う。
 芸術って、結局、なんなのかなっていうときに、やっぱり私は最高の芸術は、「イエス・キリスト」そのものだと思ってるわけですよ。だって、あらゆる芸術は、やっぱり人を幸せにしたり、救ったり、みんなをひとつに結んだりする、そうでなければ、意味ないでしょ? それを観たらみんなが落ち込んだり、争ったりし始める芸術なんて、「やめてくださいよ」でしょう? もちろん、ただきれいごと言っているだけでも、役に立たない。心の闇にもきちんと向かい合うべきでしょう。でも最後には、「救い」というか、闇の向こうに美しい希望が見えてこなければ、いくら芸術といっても、どうなんでしょう。昨日もね、そりゃあ、優れた芸術ではあると思うけど、重い気持ちのままオペラ観終わって、文化会館から外に出たとき、ほんと、深呼吸しましたよ。午後の光が差しててね。上野公園を、シャンシャン見てきた人たちがニコニコしながら歩いてて。
 コンプレックスを持っているみなさん。私は、あの文化会館のホール内は、とっても芸術的でしたけど、今日のこの聖堂の中のほうがよっぽど素晴らしい芸術だって申し上げたい。あれほどの演出はしてないし、金もかかってないかもしれない。でも、二千年の伝統がある儀式だし、こうして福音が語られてるわけですから、まあ、三文役者の芝居みたいな説教ですけども、確かに福音が語られてるんですから、この祭壇の後ろにはどんな金の板よりも美しい天国が、見えるはずなんです。これはやっぱり、私は、最高の芸術だと思う。

 もちろん、僕もコンプレックス抱えていて、それはもう、しょうもないコンプレックスをいっぱい抱えていて、たとえば、この八重歯ですね。これはね、子どもの頃は別に気にしなかったんだけど、思春期になるとね、やっぱり。みなさんは神父のこの八重歯を見て、どう思うんだか知りませんけれど、(笑)本人は、若い頃はずっと気にしてたんですよ。「なんでこんな歯なんだろう。もっと普通だったらよかったのにな」って、おそらく十万回くらい思ったんじゃないですかね。(笑)鏡見る度に。(笑)だから、思春期の頃は、口を大きく開けて「あははは」って笑わなかった。誰も気にしてないんですけどね。コンプレックスってそういうもんです。
 だけど、今はもう、そういう自分の抱えている劣等感を超えていく、超越した恵みの世界を私は知ってますから、そういうコンプレックスに振り回されることがありません。全く消えるってことはないにしても、「ま、この世はこんなもんだ」と、現実と仲良く付き合ってます。形あるこの世を超えた、まったく自由な、超越的世界を信じているからです。
 第二朗読がちょっと気になったんですけど。パウロの手紙ですけど、私たちは土でつくられた最初の人なんですね、アダム。しかし、それで終わるもんじゃない。もっと霊的な存在に高められていく。進化していくというか、高められていくというか、生まれ出ていくというか。私たちは、土でできたこの体だけで生きて、終わってしまうわけじゃない。この体の段階を経て、霊的な体に進化していくというか、生まれ変わるというか。これ、真実なんですよ? そういう真実を知らないから、この世の八重歯とか、そんなどうでもいいもののことで悩んだり、恐れたりするわけです。こんな歯なんか、死んで火葬場で焼かれたら、コロンと転がるだけでしょう。どうぞみなさん、焼き場で私の八重歯を拾ってしみじみしてくださいね。(笑)「ああ、この人は、これを気にして、十万回悩んでいたのか」って。
 囚われから、解放されなければなりません。この「私」って、いつか必ず、霊的な存在に生まれ変わるんですから。楽しみじゃないですか。どんなコンプレックス抱えていても、どうせそれを超越した存在になるんです。腕が悪いです、足が悪いです、見た目が悪いです、性格が悪いです、生まれた環境が悪いです、親が悪いですって、そんなの、この世での、ほんのひとときの話。未来永劫続くわけじゃない。
 それをパウロは、「最初の人」と「第二の人」って表現しました。この世でコンプレックス抱えている人々は、「土ででき、地に属する者」であり、それを超えて我々がそうなっていくべき者は、天に属する者なんです。「土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです」(一コリント15・47-48)
 「天に属する者たち」。キリストの似姿になっていく者たち。

 昨日の入門講座に若い青年が1人、やって来ました。29歳。鶯谷でお風呂に入って、風呂上がりに散歩して、教会の前を通ったらカフェ・ボードが出ていて、「どなたでもどうぞ。入門講座です。わかりやすい神さまの話です」なんて書いてあるのを見て、フラ~と入ってきた。そういうチャンスに、まさしくこの世のことを超えた、超越的な世界に触れてほしくて、いろんなことを話したんですけど、彼にとってどこがツボかわからないから、いろんな種類の福音をね、幕の内弁当みたいにいっぱい詰めたやつを、(笑)テンコ盛りでドーンと出しました。どれか当たるだろう、みたいに。そうしたら終わったときに、こう言ったんですよ。「神父さんの言った、『わたしたちの本国は天にある』(フィリピ3・20)。それにビックリしたというか、心に入ってきて、感動しました」、と。
 私なんかはもう60年、キリスト教の中にいるから、「本国が天にある」って当たり前だというか、逆にそうでなかったらこの世って何? みたいな感覚がナチュラルにあるわけですよね。実際僕たち、日本人だとか、韓国人だとかって言って、この世の国籍を自分のアイデンティティにしがちですけど、みみっちいですよね。実に、みみっちい。自分の本質にナショナルを言い出すのは。「日本はいい国だねえ。隣の韓国もいい国だねえ」、そんな程度にしておけばいいのに、あまりに国籍を強調し過ぎ。じゃあ、なぜ強調するかっていうと、本国が天だって知らないからです。知ってたら、別にこの世の所属なんてどうでもいいはず。大坂なおみさんなんて、国籍をアメリカにしようか、日本にしようかって、選んでるじゃないですか。国籍なんて、そんな程度です。どこだって、いいんです。
 誰であろうが、本国は、天にあります。このアイデンティティさえ信じていれば、自由になれます。やがて、その本国で、自分がどれほど霊的な美しい体として生きていくのか。そう思ったら、歯の一つや二つ、どっから生えていようが、別にどうだっていい話なんです。この世の体を生きている以上、ついつい、見えるものにとらわれちゃうのは、これはしょうがない。コンプレックスってものは、なかなか消えないものです。おそらくこの世では、そこから完全に自由になることは、できないんでしょう。だけど、もしも本国への希望がなかったら、この世しかないんだったら、それこそ、閉ざされたホールで、暗~いコンプレックスの話を観ているような人生になっちゃうんじゃないですか。このまま生涯、こんな思いで生きていくだけかと思ったら、おかしくなって当然ですよ。
 外の世界が、あるんです。金色の光が降り注いでいる神の世界が。僕らはその先取りをしている、その感覚は重要だと思いますよ。このミサは、その世界の入り口です。オペラの演出では、パーンと金色の板が光ってましたけど、みなさんには、これからパーンと見せる、白く輝く板がありますよ。仰いでくださいね。真っ白い、その向こうに天国の輝きが見えるというようなしるしを、神の愛であるイエス・キリストそのものとして、みなさんの前に高々と掲げましょう。金の板がバーッと前に寄ってくるように、私、その板を持ってみなさんのほうに寄っていきましょう。「選ばれてない」とか「ついてない」とかっていう感覚、そういうものを吹き消すような、美しい、神からの選びです。ご聖体をいただくときに、「ああ、私は選ばれている」って思ってほしい。
 急に思い出したけど、先週の新年会でビンゴをやって、私、トップで当たったんですよ。(笑)ああいうの、なんか妙にひきが強いんですよね。だけど、この世でひきが強いと、天国で一番小さいものになっちゃう。(笑)この世でひきが弱いほうが、得ですよ。恵まれてないとか、選ばれてないとか思っている人こそが、実は一番選ばれてるんだから。
 「私は、なんてついてるんだろう」と思って、ご聖体をいただいてください。



2019年2月24日録音/2019年6月13日掲載 Copyright(C)2019 晴佐久昌英