年間第2主日
第一朗読:イザヤの預言(イザヤ62・1-5)
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント12・4-11)
福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ2・1-11)
カトリック浅草教会
先週の報告をぜひみなさんから聞きたいところです。「司祭不在時の主日の集会祭儀」というのを先週いたしました。今司祭が少なくなっていますので、司祭がいない時でも主日に集会をするための準備、練習、そういうこともしておこうっていう意見も前からあり、藤岡神父さまの代わりにミサを頼む司祭がなかなか見つからないこともあり、先週、浅草教会で、司祭不在時の主日の集会祭儀をいたしました。まだ直接は、みなさんの感想を詳しく聞いていないんですけど、ぶっちゃけどうだったんですか?
司祭はどんな式でも司式できますけど、唯一司式できないのが、「司祭不在時の集会祭儀」。(笑)なので、これは実際にはどんな感じなのか、わからない。後ろの扉からそっと覗けば見れますけど、いるならミサやれよって話ですから。(笑)どうでした? うまくいったんですか? 「こんなんじゃ救われない」って言われても困りますけど、あんまり「これは良いねえ!」って言われるのも困る。(笑)いずれにせよ、信者みんなで、司祭がいない時でも心を一つにして、信仰を守って、共に感謝と賛美を捧げる工夫をしていく必要はあります。日本なんか、250年間、神父いなかったんですからねえ。その期間にもずーっと信仰を守り抜いたという世界史に例のない体験をしている我々ですから、神父もだんだん少なくなり、現に私も上野に行くの、浅草に来るので大変なわけですけれども、ちょっとやってみたっていうことです。
ただですね、司祭がいようといまいと、ミサ、もしくは集会祭儀の本質は変わることがない。ミサではないですから、秘跡ではありませんけれども、聖別されたパンが聖櫃にちゃんと安置されていて、それをみなさんで拝領したわけです。そこはある意味秘跡、ですね。ミサではないけれども、秘跡としての聖体拝領をいただいていると、その本質は司祭がいようといまいと一緒です。
そういう意味でいう、秘跡の本質は何かというなら、イメージとしては、やっぱり天と地がつながる瞬間みたいな、そういうイメージを大事にしてほしいです。もちろん、いつだって神に愛されているし、いつだって神と共にあるという信仰をもってはいますけれども、だからこそ、週に一度、ミサや集会祭儀において、そう信じる仲間が一堂に会して、本当にそうなんだよねと一緒にみ言葉を聞いて、キリストの体をいただく。それは、他の6日と23時間を励まし、力づける、恵みのときです。
家族の食事ってそういうものですよね。それこそ1週間、お父さんは夜勤で家にいない、お母さんもパートで大変、子どもたちも勉強だ、塾だで、普段はみんなバラバラ。だけど、週に1度はみんな集まってちゃんと一緒にごはん食べましょうとか、やるでしょう? そこでね、「お父さん、いつもありがとう」「お母さん、大変だね」「おまえもしっかりやれよ」と、みんなで心を一つにする。そういう瞬間がないと、他の6日と23時間生きていけない。
その食事において、神さまからの恵みの言葉が語られて、一つの体としてご聖体をいただいて、家族が心一つにする。この、「言葉としるし」っていうのが、天と地がつながって家族が一致する、恵みの1時間の本質なんです。
言葉としるし。
それも、神さまから語りかけられる言葉と、神さまの愛の目に見えるしるし。いつもの親子のたとえで言うなら、「ああ、いい子だねぇ、いい子だねぇ、大好きよ」って言ってくれる親の優しい言葉と、ぎゅぅっと抱きしめてくれる親の暖かい手。その両方があって、「私たちは本当に神さまから愛されているんだ」「もう大丈夫なんだ」そう知ることができる。主日の1時間でそれをしっかりと味わって、他の6日と23時間もそういう日々なんだということを共に信じて、生きていく。これがキリストの教会の恵みということになろうかと思います。
今日の福音書はカナの婚宴の話ですけども、私、この個所大好きで、というのは宴会の話だからですね。私、宴会大好きです。私、おそらく、日本で最も数多く宴会を開いている司祭ではないかと。(笑)さっきも手帳見たら、先々週の金曜から明日の月曜まで、11日間連続で新年会です。全部違う集まり。宴会っていっても、みんなでただ騒いでいるわけじゃない。悩みを語り合い、福音を分かち合い、家族としての食事をしています。昨日は学生たちの集まりでしたけども、信者さんがおうちでお鍋作って、持ってきてくださって、ありがとうございました。っていうのは、今ここにおられるからですけど、美味しかったですよ、ホントに美味しかった。おとといは、また別の信者さんたちがみんなで作ったごはんを入門講座の宴会で一緒に食べて、これまた楽しかった。で、そういう宴(うたげ)っていうのは、実は、キリスト教の本質なんですよ。
今日のミサの集会祈願をもう一度読みましょうか。
愛の源である神よ、あなたは心から祈る者の声を聞き、こたえてくださいます。この集いを主キリストとともに祝う喜びの宴としてください。賛美と感謝をささげる一人ひとりのうちに、あなたの愛が満ちあふれますように。
この場合、「この集い」というのはミサのことでもありますし、またミサで励まされて、1週間生きていく、この大変な人生を、問題の多い世の中を生きていくキリスト者を励ます宴がすべて、キリストの宴です。
「福音家族」と私は呼んでおりますけれども、血縁を超えた家族です。いや、「血縁を超えた」っていうより、あえて言えば、「神さまの血が通っている」家族。それなら、血縁ってことですけど。そういう家族として、私たちがホントに喜びの宴を捧げる。共にする。これはキリスト教の本質です。もっともっと、みんな集まって、宴を大事にいたしましょうっていうのが、教会の使命なんです。
カナの婚礼の出来事は、ヨハネ福音書による、イエスさまの一番最初のしるしです。やっぱり一番最初って、何か訳があるわけですよ。一番最初にイエスさまが何したかっていうと、素晴らしい宴をつくりましたっていう話です。ワインが足りなくなったらもう、宴としては破綻するわけですけども、イエスさまがその宴を喜びで満たしてくれた。花婿も大喜び。世話役も感動して、宴が続きます。三日三晩だか、時には1週間だか続くんですよね、この時代の婚宴は。
そういう喜びを生み出すイエス。我々キリスト者も、喜びを生み出すキリスト者です。まずは宴に参加することでしょうけど、マリアさまみたいに、「あ、もう、ワインがない」と気遣いして、色々工夫して、お世話する。イエスさまも「まだわたしの時ではない」って言いながらも、「これを持っていきなさい」と命じて、ちゃんとこの宴を、喜びの宴に変えてくださる。これが、ヨハネ福音書の最初のしるしなんですね。ここからもうキリスト教が始まったといっていいような恵みの出来事。
はっきりとしたイエスさまの宣言、み言葉と、そして目に見えるしるし。これでキリストの教会は成り立っております。ミサでいえば、前半の言葉の祭儀が、神さまからの愛の言葉。後半の感謝の典礼が、喜びの宴。この言葉としるしで、私たちの教会は励まされ、6日と23時間を頑張っていけるのです。
「福音宣言」の話をちょっとしたい。今日のこのミサにも、洗礼を受けたいという方が来られていますけど、数えるならば、1、2、・・3人ですね。3人おられます。この方々に、驚くほど共通していることがあるんですよ。それは、福音宣言によって、救われた方なんですね。はっきりと「あなたは救われている」って宣言を受けたり、はっきり「すでにゆるされている」という宣言を受けて、本当に目からウロコのように安心して、「そういう福音をこれからも生きていきたい。それを信じている人たちと一緒にやっていきたい」という信仰が心に溢れてくるんですよね。
これってすごく大事なことなので、私は「福音宣言」って呼んでます。私の「福音宣言」っていう本は、そのことを書いたものです。今おもにやっている「福音家族」を「しるし」とするならば、「ことば」の方ですね。このどちらも、「直接」が大事なんですよ。直接あなたに、「もうあなたは救われている」と宣言する。あるいは直接集まって、一緒にごはんを食べて、「私たちはホントに家族なんだ」っていうことを確かめる。この、神と人が直接触れるような現場。これがキリスト教なんです。
だから、あいまいなこと言ってちゃいけないんです。はっきりと、イエスのように宣言するってすごく大事なこと。聖書読めば、イエスさまの言葉は、ほとんどが宣言なんですね。はっきりと宣言する。
「あなたの罪はゆるされた」
「あなたの信仰があなたを救った」
「恐れるな」
そのはっきりした宣言によって、この世界は救われた。だけど今、教会で、なかなかはっきりした宣言を聞くことができないでいるとしたら、とても残念です。キリスト者も司祭もやっぱりきちんと、イエスの口となって、「あなたは救われている」と、「神はあなたを愛している」とそう宣言するべきです。
で、そのように宣言すると、本当に目の前で、人生が変わる瞬間みたいなことを、私はいつも体験しています。先週1週間でも、「あなたの罪は全部ゆるされている」っていう宣言聞いて、洗礼を決心した方がおります。ちなみに、その方の生涯最初のミサは、去年の澤田和夫神父さまの白寿ミサだったんですよ。澤田神父さまも、ホントに、はっきりと、確信に満ちて語られる司祭です。その信仰宣言のような言葉はいっぱい人を救ってきたし、私もそれに倣って、はっきりと宣言するっていうことを大事にしております。これは本当に重要な、キリスト教の本質なので。
先週上野教会でお話ししたんですけど、「カトリック教会に入りたい」って希望している1人の青年は、「どこの教会に行ってもおんなじこと言われた」って言うんですよ。質問はシンプルで、「私は本当に天国、行けるんでしょうか」「私は救われるんでしょうか」というものです。まあ、それは誰もが思うことでもありますよね。「こんな私、こんな罪深い私が救われるのかどうか不安だし、そんな恐れに囚われていて、安心して喜んで生きていくことができない。信じたい気持ちはあるけれど、どうしても不安だ。私は本当に救われるんでしょうか」というような気持ちですね。
その質問に対して、各教会とも、おんなじような返事だったそうです。「あなたが救われるかどうかは、神さまだけがご存じだから、私には絶対に救われるとは言えない」と。「でも、イエスさまを信じて、洗礼を受けて、信仰生活を精一杯生きていこうね」と。そう言われると、かえって不安になるんですね。お医者さんの所に行って、「私、必ず治るんでしょうか」って尋ねたら、「それは神さまだけがご存じです」(笑)じゃあ、不安でしょう。「必ず治ります」ってお医者さまから宣言された時の安心っていうものがあるじゃないですか。
もちろん、体のことなら、「必ず」なんて言えないことの方が多いでしょうし、治ったって別の病気になるかもしれない。しかし、これは魂の話です。天の父の愛の話です。全能の父が、愛する我が子の魂を救うっていう話ですよ。そこはやっぱりね、神の愛の宣言として、しるしとしてこの世界に現れたイエス・キリストと共に、はっきり言わなきゃならないんです。私は、その彼に、はっきり宣言しました。
「あなたは必ず救われる。いや、もう救われている」と。
その宣言、すなわち福音によって、弟子たちは、罪人たちは、徴税人たちは、娼婦たちは涙流して喜んで、「こんな私は救われていたんだ。神に愛されているんだ」。そう感動して、集まって、その喜びの宴、しるしとして、みんなで分かち合っていた。それをやっていきましょうっていうことです。
「福音宣言」、ぜひ読んでいただきたいと思います。
私が大変尊敬している方で、柄谷行人という思想家がおります。日本でよりも、世界で有名です。現代の日本の思想家で、世界で最も評価されているのは柄谷行人だと言っていいと思いますが、今、「柄谷行人書店」っていうコーナーを、池袋ジュンク堂の6階で開いています。書店の中に書店があるみたいな感じですけど、柄谷行人が、最も重要だと思う内外の古典、そして自分がこれはと思った優れた本、さらに自らが書評した本、そういう本を700冊並べているというコーナーです。
驚くべきことに、そこに私の本が1冊入っているんですよ。宗教系が並んでいるあたりで、カール・バルト、内村鑑三、晴佐久昌英って並んでいるんですよ。(笑)バルト、内村、晴佐久ですよ。
私は、神学生の時代から柄谷行人の本を読んできましたし、今やっている福音家族の実践も、この柄谷さんの「世界史において普遍宗教は甦る」っていう、彼の交換様式に関する思想に応援されてやっているっていうところもあって、ホントに尊敬している思想家なので、その人が、世に本が何十万冊あるかわからない中で、「この700冊」に選んでくれたっていうのはね、私はもう卒倒するほど嬉しかった。
そこで選ばれていたのが、「福音宣言」です。とてもシンプルな内容です。神はみなさんにきちんと愛を宣言しているんです。あとはそれを聞くか、聞かないか。みなさんがそれを、聖書を通して、説教を通して、ミサを通して、秘跡的な出来事を通して聞いているんだってことを、私はもう一度ここで、宣言したいと思います。
特に洗礼を準備している方に、宣言したい。・・・あ、もう1人いた。受洗希望者があそこにもいました。あなたも、「もうあなたは救われている」って聞いて、目からウロコのように救いを体験したんでしたね。今年になってから、初めて教会に来ているんで、まだひと月もたっていないんですけど、お正月に初めて教会に来てミサに出たとき、何か難しい話をするのかと思っていたら、神父が駅伝の話を始めた。(笑)それで安心して、入門講座に出てみたら、「あなたはもう救われている」って宣言を受けて、「もうこれを一生手放したくない。自分の決心は変わらない。この教会で私はみんなと一緒に福音を信じていきたい」って決心して、数日前の面談で、「洗礼を受けたい」って言いだした。え~、あなたが今年受洗できるかどうかは、私の判断次第ですけどね。(笑)
しかし、まだひと月たっていなくても、あなたは、キリスト者になるために、この世界を生きていくために、真の救いに目覚めるために、最も必要なことをもう聞きましたし、信じました。この世に他に大事なことばとしるしはいっぱいあるけれども、「私はもう神の愛によって救われているんだ」という喜び、「それを信じる家族がここにいる」という安心、その恵みを生涯失わないように。・・・それには洗礼が一番いいかな?(笑)
2019年1月20日録音/2019年4月3日掲載 Copyright(C)2019 晴佐久昌英