福音の丘
                         

たった一つの飼い葉桶

主の降誕(夜半のミサ)
カトリック浅草教会
第一朗読:イザヤの預言(イザヤ9・1-3、5-6)

第二朗読:使徒パウロのテトスへの手紙(テトス2・11-14)
福音朗読:ルカによる福音(ルカ2・1-14)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 クリスマスですからね、いつにもましてちょっと、格調高く朗読してみましたけど、(笑)お気づきになりましたかどうか。
 流行りの言葉で言うなら、「平成最後のクリスマス」ということになるわけですよ。30年です。この説教の場で言うのがふさわしいかどうか、わかりませんけど、昨日の陛下のお言葉。ちょっと胸うたれましたよ、わたくしは。まぁ、なんていうんでしょう・・・象徴天皇って、ちょっとキリスト者に似てるんですよね。キリスト者、あるいは例えば司祭も、象徴、シンボルですから。もちろん、それは何かすごく尊いものの、象徴。シンボル。
 陛下は、その30年間、この平成という時代を、自分の「旅」と呼んでましたけども、その旅を終えようとしている今、この「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」っていう、その一言にハッとさせられましたね。だって実際、その前の元号、昭和は戦争だらけだった。しかし、平成は国内では戦争がないままに、なんとか終えようとしているわけですから。
 私が感動するのは、そんな彼がね、天皇陛下が、ほんとに弱い立場にある人々のことをずっと考え続けて、あの戦争だけはもうするまいと、あんな悲しいことだけはもう二度と起こすまいと、戦争で苦しむ人のいない世界にしようじゃないかと、本気で三十年間思い続け、祈り続け、実際に働き続け、そういう平和の象徴として、老いてなお、人前に身をさらし続けたこと。これに、私はやっぱり感動いたします。天皇制がどうかとかね、そういう話は置いておいてです。

 

 ついさっき読んでた本、若松英輔っていう人の本ですけど、カール・ラーナーのことを熱心に書いていました。私も神学校時代に随分読んだ、第二バチカン公会議の立役者ともなった神学者ですけども、今のカトリックの普遍主義、すなわち、すべての人のことを考える、とりわけ一番弱い人のことを考えるっていう、このカトリックの超普遍主義みたいな本質を明らかにすることについてはね、やっぱりラーナーは大きな役割を果たしました。
 彼が「無名のキリスト者」っていう言い方をしたんですね。これはキリスト者側の傲慢だという批判もあったけれども、ある意味でカトリックの本質を言い当てていたと思う。それは普遍主義からさらに超普遍主義へと開かれていくチャレンジでもあったわけですから。
 すなわち、キリスト教とは、洗礼を受けてキリスト者となり、キリストを信じている人だけが天国に入るというような原理主義的な教えではない、ということです。神はすべての人をわが子として愛しているんだし、すべてのわが子を救ってくださっているんだし、そのシンボルとして、キリストがいて、キリストの教会がある。だから、「あなたたちはだれでもが本当に素晴らしい神の子であり、もう救われているんだ」という福音を語ること、そして、中でも一番弱い人を大事にすることで、神の愛のしるしとなり、すべての人の救いのシンボルになっていくこと、教会とはそういうものだということです。
 カール・ラーナーをはじめとした神学者たちのおかげで、そのような方向性はバチカン公会議の中核に据えられましたし、おかげで、以来50年経ちましたけど、こんな私なんかが、神学校に入って神父としてやってこれたのは、その普遍主義を愚直に信じたからです。「洗礼を受けないと救われない」なんていう、50年以上前の神学がそのまま続いていたら、僕なんかは、神父に絶対ならなかった。
 すべての人が神の愛によって救われている。その本質を伝えることで現実に人を救える。とりわけ弱い人、一番小さな人、それこそ、救われないと思い込んで苦しんでいる人に寄り添うことがキリスト教の本質だっていう、そのことに私は感動もしたし、そういうことを一生やっていけたらどんなに素敵だろうって思えたのです。
 この普遍主義によるならば、私は、もうまさにあの天皇陛下なんかは無名のキリスト者だと思う。無名どころか超有名ですけども、まさに真の意味でのキリスト者だと思う。
 一番弱い人に寄り添うこと。平和の証し人となること。
 逆に言えばですよ、洗礼を受けて、どれほど立派なことを言ったとしても、ほんとに弱い人、一番小さなところに手を差し伸べようとせずに、自分の好き嫌いで人を排除していたら、もはやそれはキリスト者じゃないんだっていうことですよ。

 

 特に日本は、災害の時代になりましたからね、平成は。この間、どれほどの人が苦しんだか、闇の底でつらい思いをしたか。ここにいる皆さんもそうかもしれない。この30年の間、思い返してみたら、闇の底をくぐってきたわけですよね、皆さんもそれぞれに。でも、その闇の底をくぐってくる一人ひとりに、キリストは手を差し伸べてきたし、教会はそのしるしとならなければならないのです。
 さっき、ミサの初めに、幼子イエスのご像を皆さんの前で高々と掲げましたけれど、イエス様、両手をこう、皆さんに向かって広げてましたでしょ? あの手は、「あなたたち全員に、わたしはこの手を差し伸べる」という手です。誰一人、差別せず、排除しない。それこそ、何教とか、何宗とか区別しない。民族とか、性格とか、そんなこの世の条件に一切かかわりなく、「すべての神の子に、わたしは手を差し伸べる」っていう、そんなイエスの、シンボルなんですね、教会って。
 だから、ここに集まっている私たちこそが、そのようなシンボルであるっていうことを意識しましょうね。皆さん、ご自分の手がありますでしょう? ここに、これだけの人が集まっていますから、何百本の手があるでしょうか。皆さんが勇気をもってその手を差し伸べると、その先に新しい世紀、新しい時代が始まっていくんだということでしょう。
 普遍主義っていうのは、まさしくカトリック教会、普遍教会の本質です。「今日、主キリストが生まれた」って、先ほどの朗読でたった一言で言いましたけれど、その誕生は、すべての人のためなんです。「すべての」、です。カトリックっていうのは、そういうことなんです。普遍っていう意味なんだから、ギリシャ語で。すべての人です。分け隔てしない。
 ガブリエル・マルセルっていう、私の大好きなフランスの哲学者がいるんですけど、「『わたしたちカトリック』と言った時に、それはもはやカトリックではない」って言ったんですよ。かっこいいでしょ。確かに、「わたしたちカトリック」って言っちゃったら、「わたしたち」と「あなたたち」の間に、線を引いたことになるじゃないですか。第一、「わたしたちカトリック」って一言でいうけど、それは洗礼を受けた人? 信じた人? 信じたと言ってもどれだけ信じた人? カトリック神学を理解した人? どこかの教会に所属している人? 熱心にミサに与っている人? クリスマスだけ来る人は? それはもう、どのみち線は引けないはず。そんな現実の中で、乱暴に「わたしたちカトリック」なんて言っても意味がないし、無理やりそんな線を引いたって、無意味な壁を作るだけ。そんなことをするのは、そもそもカトリックではないって言ったんですよ。
 私はそういう普遍主義にこよなく惹かれます。さっき秋葉原まで買い物に行きましたけど、大勢の人が行きかっているのを眺めながら思いましたよ。ああ、みんな神の子だ。あなたたちみんな、すでに救われているし、神に愛されているよ。ぜひとも、それに気づいてほしい。あなたたちのために、救い主イエス・キリストがこの世に誕生したんだから。あなたにも、あなたにも、あなたにも、それを知ってほしいと。
 できればいつか、秋葉原でマイクを握りたい。(笑)できれば。いつも、「ここで、そんなこと、できたらいいなぁ」とチラッと思いつつ、そんな勇気はないなとも思い、でも、こうしてみんなに説教していると、やっぱりいつかはやってやると思い・・・。ま、だけど、駅前で誰かがマイク握るよりも、この仲間たちがみんなで、出会った人一人ひとりに、その手を差し伸べて、ひとこと、言葉をかけて、関わっていけばいいわけですよね。
 新しい元号になってね、新しい時代が始まりますけれども、キリストの教会も今、ターニングポイント、転換点に来てると思いますよ。ハッキリとそれを見据えて、ここから先、我々も新しい時代をやっていこうじゃないですか。そういう使命というか喜びを、我々はこの時代に、神からちゃんと与えられていると思いますよ。

 

「西郷どん」の最終回を、たまたま見ました。実は私、連続ドラマって見るのが苦手で、全然見ないんです。っていうのは、一度見ちゃったら、絶対次を見ずにはいられなくなって困るんで。たまたま何気なくテレビつけたら、「最終回」って出てきたんで、「最終回なら、見よう」と思ったんです。(笑)もう、次がないからね。安心して見たわけですけど、鹿児島あたりで、西郷さんが最後に、「突撃―!」って言って走り出て、撃たれて死んでいくところでした。初めて見たのにすぐ死んじゃったんで、いったいどんな西郷さんだったのか全然わからなかったんですけど、ただ、西郷さんの奥さんが、死んだ旦那のことを一言でこんなようなことを言ってたのが耳に残りました。
「あの人は、ひたすら弱い人たちのために駆けずり回っていた」と。
 そういう人がやっぱり、人気があるというか、信頼されるというか、そういうことでしょう。弱い人、だれも味方してくれないような一番弱い人、だけど絶対見捨てちゃいけない人、そういう人にこそ、手を差し伸べる。決して見捨てずに声をかけ、寄り添う。
 西郷さんだって、その意味で言えば、無名のキリスト者なんですよ。っていうか、この「無名」っていう言い方が微妙なんだよね。割と誤解される言い方で、また実際誤解した人も多いんだけど、言いたいことは要するに、キリスト者っていうのは、人を救う働きに用いられる人たちなんであって、その意味では、別にいわゆるキリスト教徒でなくても、キリストと共に生きて働いている人たちは大勢いるし、本人が意識していなくとも、復活のキリストは宿っていて、神の愛の中、聖なる霊の働きの中で、神の国のためにちゃんと用いられているし、そういう人をこそこの世の壁を越えてキリスト者と呼ぼうってことでしょう。そういう一人ひとりに尊敬を抱き、信頼をおき、そういう人たちみんながちゃんとつながっていく世界でなければ、カトリックとは呼べない。

 

 キリスト教、私は、新しい時代を迎えようとしていると思いますよ。
 ついさっき、電話がきてたそうで、それを受けた方のメモが机の上に置いてありましたけれども、その人がこう言ってたと。「今の教会には、魅力が全くないと思う。それについて、お話ししたいから、あとで電話をください」。
 クリスマスの日に、「今の教会には全く魅力がない」ってわざわざ電話してくる人がいるって。それはもう、啓示でしょう。神の声だと思ったらいいですよ。
 なんで魅力がないか。手を、差し伸べてないからでしょ。福音を語ってないからでしょ。純粋にそれだけのことじゃないですか。信者がこうして集まるのはいいけれども、もしも自分たちが幸せであるならば、自分たちが信じる喜びをもっているならば、自分たちが信じ合える仲間に恵まれているんであれば、そんな私たちの手を、イエスのように、すべての人に向かって差し伸べましょう。その手の先に、新しい時代が始まるんだっていう・・・。
 2019年は、そういう年にしていきましょうよって思うし、そういうことをほんのちょっとでもやってないと、なんていうんだろう・・・。キリストに出会えたほんとの喜び、教会を知っているというほんとの誇りを知らずには、死ぬに死ねないっていう気分です。せっかく生まれてきて、信者1%にも満たないこの国で、こうしてクリスマスの夜に集まって、聖書を聞いて、福音を聞いて、そしてここから出発しようとしている私たち。やっぱり、選ばれていると思う。
 皆さんは、もちろん一人ひとり、つらい思いをしたり、悲しい思いをしたりして、この1年、あるいはこの30年を生きてきましたけれど、間違いなく、神さまから選ばれています。招かれています。遣わされようともしています。皆さんそれぞれの、特別さ、個性や資質、とりわけ皆さんの弱さを通して、神さまが働きます。それが、普遍ということでしょう。
 その先に、皆さんが「ちょっと」伸ばした手の先に、何が起こるか。それは、神だけがご存じ。でも間違いなく、大きな実りがあると、そう信じて、新しい出発をいたしましょう。

 

 今日、ミサのはじまる前に、入り口で「おめでとうございます」って、皆さんが入ってくる時にご挨拶してましたけれど、ずっと以前の教会の懐かしい顔も現れてました。かつてはいろいろつらい日々もあったけれど、福音に救われた方です。他にも今もこうして皆さんの顔を見ていると、試練を超えて救われた一人ひとりのことを、司祭はみんな知っているわけです。でも、みんな救われているじゃないですか。誰かが手を伸ばしてくれたからです。福音を伝えてくれたからです。そこにいるお二人も、いろいろ大変な思いをしてきた。でも、今日、こうして、このミサに与っています。これは救いのしるしです。神の愛のシンボルです。これは、事実です。

「主キリストが生まれた」

 それは、神話じゃありません。主が今私たちの内に宿っています。言葉のあやでもありません。救いの事実です。神は確かに、ご自分の愛の受け手としてこの世界をおつくりになったし、今日、この聖なるミサの内に、確かに実存しているし、なおも恐れのうちにある一人ひとりと共にあって強めてくださっている。この、ミサの神秘、教会の神秘、主の降誕の神秘を、私たちは感謝、感激、信頼をもって、受けとめて、ここから出発をいたします。
 主が共にいてくださるから、何一つ恐れることはない。天使の一言を繰り返しましょう。

 

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と。(ルカ2・10)
「民全体」って誰ですか。すべての人でしょう?

 

「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」(ルカ2・11)
「今日」っていつですか。2018年、平成最後のクリスマス、この今日。
「ダビデの町」ってどこですか。皆さんの心の内に、皆さんがこうして共に集まっているこの場所で。
「あなたがた」って誰ですか。皆さんのことですよ。ここに集っている、この私たちのために、救い主がお生まれになった。結局、いつでも、どこでも、だれにでも、です。
 何も心配いらない。恐れるな、と。

 

 私たちも、飼い葉桶を一つ提供しましょう。
 マリアとヨセフ。ベツレヘムに来て、宿屋がなく、野宿するしかない。そんなときに産気づいてしまった。どこで産んだか。一応「厩(うまや)」って言われてますけど、聖書には実は厩って書いてないんですよ。「飼い葉桶に寝かせた」とあるだけです。これ、勝手にどこかにもぐり込んだって話じゃないでしょう。間違いなく、粗末ではあるけれども、「ここでどうぞ」って言って、なんとか子どもが生まれるのを助けて、飼い葉桶を提供した人がいたんですよ。荒れ野で石に寝かせたわけじゃない。
 我が家も狭いし、こんな粗末なところしかないけれど、ここでなんとかと、差し伸べた手。こんなものしかないけれどと差し出した、小さな飼い葉桶。それが、救いのシンボルです。そこに、主が宿って、そこからすべてが始まった。
 天使ははっきりと、言っております。
 

 「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカ2・12)


 さあ、私たちも、一つの飼い葉桶を差し出しましょう。とても小さな、この世にたった一つの飼い葉桶に、すべての人を救うキリストが宿ります。


2018年12月25日録音/2019年2月10日掲載 Copyright(C)2019 晴佐久昌英