福音の丘
                         

福音レストラン

浅草教会報 2019年4月復活祭号

 「洗礼を受けたから、救われるのではありません。だれもがもうすでに救われていることに目覚め、その喜びを多くの人に伝えるために洗礼を受けるのです」
入門講座ではそうお話しし、そのことを「福音レストラン」に例えてまいりましたが、復活祭に受洗したみなさんに、改めてその例えを確認しておきたいと思います。
 教会は、人々に福音を提供するレストランに例えることができます。シェフはもちろんイエスさまで、洗礼を受けたキリスト者たちがスタッフです。そこで出される料理は、だれもがおいしいと感じる、普遍的な福音です。たとえば、「あなたは神に望まれて生まれてきた」「だれもがまことの親である神に愛されている」「どんな試練も生みの苦しみであり、死こそは神の世界への誕生である」「すべての神の子は、神の親心によって神の御許に誕生していく」「そのような福音(よいしらせ)を、イエスは愛の言葉と十字架のしるしによって私たちに教え、信じされてくれた」「そのイエスの復活(神の世界への真の誕生)は、すべての人の復活である」などなど。これは特定の宗教の教えというよりは、だれにでも通用する、普遍的な真理といっていい、ごちそうです。
 このレストランは、すべての人に開かれたレストランですから、だれもがそこで福音を味わうことができます。宗教や民族や、それこそ良い人悪い人関係なし。レストランを訪れる神の子たちみんなが、福音を味わって元気を取り戻したり、スタッフの家族的な暖かさに触れて孤独から解放されたりして、希望を新たにしてくれるのが、福音レストランの目的であり、願いですから、お代は頂戴いたしません。ごちそうを味わった人が「ああおいしかった」と言って笑顔になってくれればそれで充分なのであって、教会とは、そのような救いの喜びを、見返りなしにサービスするところにほかなりません。
 ところで、訪れる人の中には、そのような福音のおいしさに感動して通いつめ、ついにはこう言いだす人も現れます。「こんなにおいしいものを、自分だけ味わっているのはもったいない。ぜひ、ほかのみんなにも知らせたい。できれば、私もこの店を手伝って人々を喜ばせたい。お皿洗いでもなんでもしますから、ぜひスタッフに加えてください」、と。店長は大喜び、スタッフも大歓迎、それじゃあ今日からよろしくと、お店の白いエプロンを渡します。これが、洗礼です。
 さて、この例えで言うならば、今の教会はどこも、全員スタッフのレストランになっていないでしょうか。毎日おんなじスタッフで集まって店を掃除したりキッチンで賄い飯を食べたりしているけれど、客が全然来ないし、呼ぼうともしない。たまにやってきても、注文も取りに行かないし(相談に乗ったり悩みを聞いたりしない)、料理も出さない(福音を伝えない)。それでも稀に何度か来る客がいても、それが当然のように「あなたもスタッフになりなさい」と誘うので、結局来なくなる。これでは、シェフが提供するおいしい福音が、あまりにも、もったいない。
 新受洗者のみなさん、みなさんはもうすでに救われています。キリストの愛のこもったまごころの料理を味わっています。その料理を、お腹を空かせている多くの人たちにも食べさせたいというみなさんの熱い思いにこたえて、このたび、教会はみなさんをお迎えして、真っ白なエプロンをお渡ししました。どうぞこれからは、友達を呼び、チラシを配り、ネットで宣伝し、この福音レストランを客でいっぱいにしてください。そうしてお客さん一人ひとりに笑顔で接し、ていねいに注文を取り、最高のごちそうを提供してください。そのような、居心地のいい家庭のようなお店を実現すれば常連客も増え、そんな中から来年もまた、「私もこのお店で働きたい!」という仲間が生まれることでしょう。