福音の丘
                         

一つの群れの歌

復活節第4主日
カトリック浅草教会

第一朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録4・8-12)
第二朗読:使徒ヨハネの手紙(一ヨハネ3・1-2)
福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ10・11-18)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 また緊急事態宣言、ということになりました。ものともせずに、結構来ましたね。(笑)「不要不急」ってなんだろうって、一年考えても答えは出ないし、結局は「こうしてみんなが集まれることは素晴らしい。でも、あんまり来ないでね」って、なんか矛盾したことを言うしかなくて、なかなか悩ましい。でもまあ、そんな中こうして集まれたっていうことは大きな恵みですし、今日の福音で言うならば、イエスさまご自身が羊飼いとして一つの群れに集めてくださったわけですから、私たちはミサにあずかれた感謝のうちに、「さあ、イエスさまのお手伝いをするぞ」っていう使命感を持って、集まれなかった人とも結ばれて、このミサで希望を新たにしてそれぞれの現場に出かけていただきたいな、と。
 イエスさまの言うとおりです。「一つの群れになる」(ヨハネ10・16)んです。我々、一人で救われるわけじゃないんで、みんなが一つにつながっていて、それは見えない世界でもつながっていて、みんな一緒に救われるんだっていう信仰をお忘れなく。そのようにすべての人を救うためなら、羊飼いは自分の命さえ捨てるという、我々はそうしていただくほどに価値のある子羊たちなんだっていう、その福音に胸をときめかせてほしいし、その福音に励まされて、このミサから出発いたします。

 「一つの群れ」ということで、今日はどうしても筒美京平の話をしたい。昨日もその話をしたら、三十代の友人が「誰?」って言うんで、まあ、そうですよね、お若い方は知らないでしょうけど、ぜひ覚えていただきたい。筒美京平。昭和歌謡を代表する、日本の歌謡界でもっとも有名な作曲家です。生涯で三千曲つくって、シングルの売り上げが七千六百万枚。これは、日本一位です。私は、中高生の頃からの筒美京平ファンで、大好きな曲が山のようにあります。みなさんも聞けばわかりますよ、「これも筒美京平? これもそうなの?」って感じで。一躍有名になったのは、1968年、いしだあゆみの「ブルー ライト ヨコハマ」です。これで日本レコード大賞作曲賞をもらって、1971年には尾崎紀世彦の「また逢う日まで」。そして南沙織の「17歳」とかね。錚々たる曲、全部そうです。平山みきの「真夏の出来事」とか、堺正章の「さらば恋人」とか、あるいはジュディ・オングの「魅せられて」、これで二度目のレコード大賞をもらいました。なんと言ってもアイドル路線の草分けとしての彼の働きはすごかった。浅田美代子とかね。私、浅田美代子の追っかけをしていて(笑)、吉祥寺の近鉄デパートの屋上でナマの「赤い風船」を聴いたときの感動は忘れられない。写真小僧みたいに写真撮りまくってみんなに配ってね。・・・五十年前ですよ。ねぇ、月日の流れるのは早いものです。麻丘めぐみの「芽ばえ」に、松本伊代の「センチメンタル・ジャーニー」、斉藤由貴の「卒業」、小泉今日子の「なんてったってアイドル」・・・すいません、お若い方々、置いてきぼりでごめんなさいねー。
 なんでこんな話をしてるかって言うと、筒美京平が去年亡くなったんですね。10月7日。それで、半年経った先週日曜日の夕刻に追悼コンサートがあって、熱狂的筒美ファンたちが東京国際フォーラムに五千人集まったんです。私ももちろん馳せ参じて、ずっと涙にくれてましたよ、感動して。だってですね、これ、全35曲かな、オリジナルの本人が出てきて歌うんですよ。太田裕美が出てきて「木綿のハンカチーフ」を歌うんですよ。浅田美代子出てきて、「赤い風船」歌うんですよ。昔と同じように下手だった(笑)。・・・そして、同じように可愛かった。もう、胸が熱くなって、泣けちゃいました。
「そうなんだよ、この曲が流行ってたとき、恋に悩んでたんだよ」
「そうなんだよ、この曲をギター弾きながら、みんなで歌ったんだよ」
「そうなんだよ、未来のことはわからなかったけど、精一杯生きてたんだよ」
「そうなんだよ、不安な青春時代、こういう曲に励まされて生き抜いてきたんだよ」
「そうなんだよ、この曲たちが、ぼくらの一度の人生の、生きた証になっているんだよ」ってね、なんだか自分の人生をそっくり肯定してもらえたような気持ちになって。
 それにね、出てくる歌手たちが、みんな心から筒美京平を愛してるのが伝わってくるんです。「筒美先生がいなかったら今の私もない」っていう人たちばっかりですから。歌い終えて、天に向かって投げキッスをしたりね。出演者同士もお互いに同じ時代を生き抜いたわけで、楽屋は同窓会状態で大盛り上がりだったらしいですよ。客席もそれを感じるんですね。ステージと客席が歌で一つに結ばれて、みんな涙、涙で、大変でした。一番拍手が多かったのは、郷ひろみかな。「男の子女の子」と「よろしく哀愁」を歌ってくれましたけど、わが人生で、ついにナマの「よろしく哀愁」を聴けた、そういうのが嬉しくてたまらなくて。

 このコンサートで、特に感じたことが二つあります。
 一つは、「イントロってすごいな」ってことです。いしだあゆみだったら、出だしの(歌う)「タラタターン、タラタターン♪」っていう演奏が鳴り出したらもう、「あ、ブルーライト ヨコハマだ」ってわかりますから、それだけでもうみんな感極まっちゃうんですよ。まだ歌ってないんですよ? でも、イントロでもう「あぁ!」ってどよめくんです。主催者からは、コロナ対策で「一緒に歌うな」「声援するな」「拍手だけ」って言われてるのに、イントロが鳴り出すと、みんな、「おぉ!」って声が出ちゃう。嬉しいというか、懐かしいというか、もう泣けてくるんですよ。たとえばこういうミサなんかでも、静かに座って開祭を待ってると、鐘が鳴り、オルガンが鳴り始めただけで、「あぁ、いよいよ始まるな」っていうときめきというか、高揚感がありますよね。もちろんミサ全体が素晴らしいんだけど、それが今始まるぞって言うときの導入部、「イントロ」は独特の力を持ってます。ジュディ・オングの「魅せられて」とか、強烈ですよ。「タタタタラタタン、タタタタラタタン♪」って始まると、みんな、「うわぁ」ってどよめいちゃう。今から目の前で、本人が歌いだすわけですから。それでですね、次々と出てくるそんなイントロに感動するうちに、ふと思ったんですよ。この世界って、イントロなんだよなって。
 っていうのはですね、人間ってこうしていろいろ活動してますけども、実はまだ本番の歌は始まってなくて、イントロ状態なんじゃないですか。曲は始まってるんだけど、歌は始まってない状態。救いの歴史として言うならば、イエスさまが現れてついに神の国は始まったんだけど、まだ完成したわけじゃない。イントロ前の、曲が始まるのを待ってる時代を旧約時代とするなら、イエス以降の新約時代って、ついに曲が始まった喜びの時代ですね。ただ、本番の歌はまだ始まっていない、つまりイントロ時代なんですよ。このことを神学的な表現では、「『すでに』と『いまだ』の緊張関係」なんていう言い方をしたりもするんですけど、要するにすでに本番の先取りとして神の国はここに来ているんだけど、神のご計画としては、いまだ完成していない。でももうすぐ、待ちに待った歌が始まる。そういう時を生きているんですね、ぼくらって。
 それを、希望と呼ぶんです。だって、イントロだけで人生終わっちゃったら、こんなむなしい話はない。イントロだけの曲なんて、面白くもなんともない。「このイントロの後に必ず本番の歌が始まる」ってわかってるからイントロに感動するんだし、希望を持ち続けられる。イントロは、確かに始まりました。だからもう、もうだいじょうぶ。天国は始まっている。それは人類の歴史としていつの日か必ず実現する。個人の歴史としてもいつか死を超えて神の国に誕生する日が来る。ともかく、まだ究極的には完成していないけど、その先取りの日々はすでに始まっているんだと。「テ・テ・テレッテテン・・・ドゥン!♪」って鳴り始めてるんですよ。尾崎紀世彦の「また逢う日まで」のイントロですね。ホールにそれが鳴り始めたときの、あのときめき。「ああ、人生ってイントロなんだ」ってつくづく思いましたよ。いつの日か、みんなで天上の大合唱ができるんです。イエスさまがちゃんとそこに我々を導いてくれますし、復活の主として「ほんとなんだよ」って証ししてくださったので、ぼくらはこの面倒な人生を、「また緊急事態宣言か」なんて言いながらも、なおも喜びを忘れずに生きていける。つい先週もこの聖堂で葬儀ミサをしましたけれど、亡くなった彼は今はもう天国で思いっきり賛美の歌を歌ってるんです、みんなと一緒に。確かにこの世はつらいし面倒だけども、もうイントロが鳴り始めている。その曲を、ぼくらは信じるっていうことじゃないですか。

 もう一つ、つくづく思ったのは、「やっぱり歌は、みんなを一つにするなぁ」ってことです。それがなにより感動でした。結構年配の人たちでしたけどね、互いに共感があるわけですよ、「そうだよね、みんな、歌謡曲世代だよね」っていう。その世代だからもう、トイレの行列の長いこと、長いこと。みんな、もう近くなってる方々ばっかりで(笑)。でもその世代が、心を一つにしました。みんな同じ曲を知ってますから、お互いの気持ちが分かるんです。これって、すごく大事なことだなって思いました。自分だけが知ってる曲を、ひとりで「いい曲だな」って聴くのと全然違うんですよ。ミサだって、コロナ時代にみんなで歌えないと、もどかしいですよね。やっぱり、司祭が「天のいと高きところには神に栄光~♪」って歌えば、みんなが「地には善意の人に平和あれ~♪」って歌う、それで心が一つになるわけですからね。音楽の力って、神さまが与えてくれた、人々を一つにする特別な恵みなんです。
 京平ちゃんのコンサートでは、声は出せなくとも、そこにいる全員が心で歌ってるのが聴こえてくるようで、それにも泣かされました。共感の涙ですね。ちなみにある曲だけ、曲の途中で拍手が起こったのが忘れられない。ジュディ・オングの「魅せられて」。本人が歌ったんですけど、昔のまんまでおきれいでね、まあ、みんな喜んで「おぉ、ついにナマで聞けた」って感じですけど、それを、当時の衣装そのまんまで歌ってくれたんですよ。ご存じでしょう? 袖に大きな白い翼みたいなのを下げて、それを両手を伸ばして広げていくんです。こんなふうに、あ、ちょうどこの白い祭服がそっくりですね、(笑)こういう感じで、(祭服の両腕を上げる)広げるんですよ。(笑)この袖の下のところがちょっとこう透けた感じで、キラキラ光ってて、逆光で薄桃色とかコバルトブルーからエメラルドグリーン、そんな色を淡く当てて透過光にして、それがパァ~っと開いていくのは、昔テレビで見ててもほんとに印象的だったんです。(歌う)「なんちゃら、かんちゃ~ら♪」(笑)って、あれ、英語ですかね、「女は海~♪」っていうところで、昔のままにこうして翼を開いたら、そこで一斉に拍手が起こったんです。みんな、見たかったんですよ。開くところ。そして、「あぁ、そういう時代だったよな、家族でテレビ見てたよな、一生懸命働いてたよな」って思い出したんじゃないですか。中には「あのとき一緒に見てた妻はもういないんだな」みたいなことを思ってる人も大勢いたはず。
 いいもんですよ、みんなでおんなじ歌を心で歌いながら、共感して思いを一つにできる瞬間って。それはもう、「たかが歌」じゃないと思うんですよね。イエスさまだって、殺される前の晩、最後の晩餐の後で、「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」(マルコ14・26)って聖書にあるでしょう? 「それってどんな歌だったんだろう」って興味津々ですけど、何で歌ったかと言えば、もう会えなくなるって時に、心を一つにしてひとつの群れになるためでしょう。みんなで、心一つにすること。歌だけじゃなく、共に感動し、共感するすべてのことを通して、神さまからいただいた恵みを分かち合う一致。キリスト教の本質です。

 「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(ヨハネ10・16)。「一つの群れ」にするのがイエスさまのお仕事だし、我々もそのお手伝いをします。イエス・キリストっていう、ほんとにそれで言うなら、レコード大賞どころじゃない、宇宙の全歴史で最高の歌とも言うべき、イエスの福音をですね、聴いて、感動して、一つの群れの歌として歌います。
 やがては天上で、我々は、どんな歌を歌うんでしょう。「天使のお仕事は賛美」っていわれてますけど、我々も天上では天使のようになって心一つに歌うわけですし、この世ではその先取りとして歌ったらいいんじゃないですか。だからこそ、この前のご葬儀ミサでも、「全員では歌えなくても、何かは歌いましょう」っていうことでね、聖歌隊の代表の方に歌っていただきました。歌で天と地が結ばれるってこともありますから。キリスト教信者ではないご遺族の中には、聖歌を知らない方も結構いますから、「いつくしみふかき」とか「かみともにいまして」みたいに、どこかで聞いたことがあるっていう歌は貴重ですね。だれもが歌える歌って、大切ですよ。尾崎紀世彦の「また逢う日まで」なんか、だれもが聞いたことがあるわけで、「かみともにいまして」の「ま~たあ~う、ひまで~~♪」とかも、また声を合わせて歌いたいですね。この世では別れても、いつか天上でまた逢う日が来るんだっていうことを、信じて歌う、歌。一つの群れとして、みんなで一緒に歌います。先に天に生まれ出ていった人たちは今、どんな賛歌を歌ってるんでしょうか。

2021年4月25日録音/2021年6月8日掲載 Copyright(C)2019-2021 晴佐久昌英