福音の丘
                         

想像力って、愛です

年間第5主日
カトリック上野教会

第一朗読:ヨブ記(ヨブ7・1-4、6-7)
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント9・16-19、22-23)
福音朗読:マルコによる福音(マルコ1・29-39)


ー 晴佐久神父様 説教 ー

 コロナ時代は、聖書を読み直すいい機会になりました。時間に余裕が生まれたというのもありますけど、今まで読んでいた時にはあまり気づかなかったような、いつもと違う言葉が目に留まったり、新たに気になったりするのがとても面白いです。コロナ時代の読み方とでもいうんでしょうか、そういうのってあるでしょうね。

  今日の箇所だと、私はまず、シモン・ペトロのお姑さんの「熱」っていうのに反応してしまいました。コロナの時代は、やっぱり発熱というのがひとつのキーワードになりましたからねえ。実際に、私の親しい友人ですけど、まだ若い男性なのにコロナに罹って40度の熱を出しました。39度以上が一週間続いて、ホントに辛かったようです。入院して3週間以上、ようやく先日退院したんですけど、外に出たときは世界が違って見えるって言う、いわゆる「変性意識」ってやつですか、「街中がきらきら輝いて見えた」って言ってました。まあ、それもそうでしょう、防護服を着た人たちと一日数回会話するだけの生活で、暗い病室の中でひとりぼっち、ひと月近くでしたから。不安だったでしょうね。そこから解放されて、世界がきらきら見えたって。
 熱の辛さは、私も去年の1月に39度の熱が出て、病院で検査したらインフルエンザと言われたんですけど、首から下が全く動かないという経験しましたからね。ベッドサイドの、すぐそこにあるペットボトルの水を取りたくても、どうしても取れない。のどが渇いているのに飲めないという、高熱で体の機能が全部ストップしちゃう、あの辛さ。まあその時は、いずれは下がると分かってましたから精神的には大丈夫でしたけど、コロナみたいに、この先がどうなるのかまだよくわからない病気だと、「もしかしてこのまま死んじゃうのかも」とか不安でしょうし、入院なんかすれば家族にもまともに会えずに孤立しちゃいますし、精神的にまいっちゃうだろうなって想像つきます。このコロナの時代って、実はそういう想像力こそが、とっても大事になってきてるんじゃないですか。
 ペトロの姑の熱が何度くらいあったのかはわかりませんけれども、身も心もやっぱり辛かったと思うし、聖書を読んでいて、まずはその辛さを想像してしまいます。そういうリアルな想像が大切だっていうのが、コロナ時代の重要な気づきでしょう。全世界で苦しんでいる人のことを我がことのように想像すること。イエスさまは苦しむ人の思いを十分に理解していますし、わがこととして関わってくださいますし、癒して差し上げましたけれども、それはすべて、相手のことを我が事のように想像する力が並外れていたからです。コロナ時代に引きこもりながらも、せっかくですからその想像力を鍛えたいですし、まずは今まさに発熱している大勢の人たちのリアルな不安を想像して、祈りたいと思います。

 もうひとつ目に留まったのは、熱を出していたその姑が、癒されると一同をもてなしたという、その「もてなし」です。これをコロナ時代に読むと、以前にもまして感じるものがあります。救われる、あるいは癒される、それは何のためか。病気が治る、それはいいことだし、コロナも治るに越したことはないけれど、それは何のためか。単に元に戻ってよかったね、また楽しく過ごしましょう、ってことではないでしょう。熱が出て苦しみました、しかし癒されました、救われました。それは、だれかを「もてなす」ためだと、そう聖書は言っているんですよ。ですから、コロナ時代を生き延びて、パンデミックもひとまず収まったあかつきには、さあ、苦しんでいるみんなをもてなすぞという思い、これはやっぱり教会全体、聖書を読む人はみんな持つべき思いなんじゃないですか。今はなかなか、もてなそうと言ったって、直接はもてなせないですから。
 この前もなんとか入門講座を再開しましたけれど、色々制約もあってもどかしいですよね。救いを求めている人は大勢いるんだし、ぜひお迎えして、福音を語って、家族的な食事をしたりしながら、癒しの現場を作って、救いの喜びにあずかっていただきたいわけです。教会なんてそれだけのためにあるようなもんですけど、人が集まることが難しい現状だと、そういうことがなかなか積極的にはできないことが、もどかしい。でも、ある意味それもいいことかもしれない。だって、もどかしく感じるってことは、それまで普通にできていた時、それは本当にすばらしいことをしていたのに、そのすばらしさをちゃんと分かっていなかったってことだから。そうしてその大切さ、素晴らしさを分かったなら、再開した時にはもう少しこうしようとか、いろいろ想像して準備できるじゃないですか。もっと工夫しておもてなししようって、今のうちに、このあれこれ上手くいかない時にこそ考えて、作戦を練って、改心もして、そして、晴れてみなさんをお迎えできるようになった時は、一層今までよりももてなすぞと、これがコロナ時代に起こっていることじゃないかと。
 ペトロの姑さんも、普段だったら、さあ、イエスさま一同が来られたからおもてなししましょうって、喜んで奉仕したと思うんですけど、熱を出してそれができないという悔しさ、残念さ、もどかしさは相当だったと思います。だからこそ、その熱を癒していただいた感謝の中でもてなした、その思いはやっぱり違っていたと思うんですよ、それまでと。同じように、人類がパンデミックを体験したおかげで信仰が成長していく、もてなし方が進化していくってのは、これはやっぱり試練を超えてこそだと思います。
 そんなふうにですね、コロナはある意味で恵みだとさえ思いつつ、この聖書の箇所を読みました。コロナの時代に、「熱が下がって、一同をもてなした」という話を読むと、ある種の啓示のようにも見えてきます。まずは、その苦しみへの想像力を大切にすること、そして、癒されるのはもてなすためだということ。さらに言うならですね、「想像力を持ってもてなす」ということ。もてなすためにはね、相手の身になって、相手の辛い思いに寄りそって、相手の気持ちを慮って、というのがすごく大事です。って言うのは、もてなしたつもりが、押し付けになっていたり、かえって相手を苦しめたりすることもありますから。こういう時期だからこそ、相手が本当に求めているものは何だろう、どうして差し上げたら喜んでくれるだろう、そういうことをじっくりと思い巡らすことがとても大切だし、そのための時間をもらっているんじゃないですか。

 相手の身になるといえば、私、2日前にすっころんだんですけど、今までの人生で一番派手に転びました。よく年配の方が転んで骨を折ったという話を聴くたびに、年取ったらもっと慎重に歩けばいいのになんて、他人事のように思っていたんですけど、思い知りましたよ。年取ると、こんなふうに転ぶんですねえ。私も若く見られることが多いんですけど、63ですよ。お若い方々、60過ぎをお楽しみに。自分では平気だと思っていても、ふらつく、よろける、つまずく、踏み外す(笑)。「おっとっと」って、体勢を元に戻そうとしても、バランスがとれないんですよ。無人島キャンプで、サーフボードの上に立って立ちこぎをする「サップ」っていうのがあるんですけど、年取ると波の上でバランスがとれなくなってくるのね。若い頃と、全然違う。すぐにドボンと落ちちゃうんですよ。「あれ、こんなはずじゃ」と思うんだけど、うまく乗れない。10代や20代の仲間たちがすいすいと遊んでるのを横目に悔しいんだけど、しょうがない。これも神の御業ですから。
 ただちょっと言いたいのは、すっころんだのはある商業施設の立体駐車場なんですけど、エレベーターを降りた目の前なんです。駐車場って、車止めがありますよね。あれは普通、車の後ろにあるじゃないですか。それが、横にもあるんですよ。エレベーターの前の車が、エレベーターに寄せて停めたら邪魔なんで、これ以上エレベーターの方に寄せられないように、車止めを横にもつけたんです。だから、エレベーター降りた先に、車止めが出っ張ってんですよ。これ、危なくないですか。そこに車があればいいけど、ないときはエレベーター降りて普通に歩いて行ったら、つまずくに決まってるじゃないですか。まさかそんなところに車止めがあるなんて思いもよらないので、思いっきりつまずいて、すっころんで、何か起きたのかわからないままに、右側の脇腹をコンクリートに思いきり打ち付けて、しばらく息ができませんでした。言いたいのは、想像しろよってことですよ。エレベーター降りた、数メートル先ですよ。そんなところに出っ張り作ったら、どうなるかって、想像できるでしょう。つまずくお前が愚かだと言われればそれまでですけど、一定数愚かな人もいるんです、世の中には。あれ、そのうち誰か死にますよ。考えたらわかりそうなもんですけどねえ、想像力がない。
 想像するって、大事です。ここをお年寄りも歩くだろうなとか、目の不自由な人だったらつまずくかもしれないなとか、大勢歩いてたら、前の人は気が付いても、後ろの人はつまずく可能性があるなとか。あれ、クレーム付けた方がいいのかもしれない。まだできたばかりの商業施設なんで、そのうち誰か死にますよって。
 想像力って、愛ですね。今、熱出している人は、どんな気持ちでいるんだろう。教会に来れないでいる人は、どんなに寂しい思いをしているだろう。・・・いろいろと想像することは、愛の始まりですね。この前、雪降りましたでしょう? 今までだったら、雪見るの好きですから「もっと積もるといいな」なんて、子供みたいに思ってましたけど、最近は路上生活の方との付き合いが増えましたから、「ああ、この冷たい雪だと、ホームレスの方、辛いだろうな」って想像しちゃいました。これやっぱり、年の功ですよね。ふらつく、よろける、つまずく、踏み外すんだけど、さすがに年の功で、そんなふうに色んな失敗や弱さを体験すると、想像力の方はどんどん豊かになっていくんですね。もてなすにしても、ある程度年をとって経験を積んだ方々のほうが上手に決まってますよ。その意味ではこれからの時代、経験者の出番じゃないですか。若い人が設計する駐車場と、すっころんだことのある人が設計する駐車場ではおのずと違ってくると思いますよ。「そうは言っても、色んな人がいるんだから」とか、「だけど、当事者の皆さんは現実にはこんなふうに困ってるんですよ」とか、そういうことを年季の入った人たちは言うわけで、今が出番だと思いますよ。

 コロナもやがて落ち着いていくでしょうが、ちょうどこの『朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた』(マルコ1・35)って言う箇所にも、コロナ時代ならではの反応をしてしまいます。「人里離れた所」って、まさに「ディスタンス」だなあ、と。やっぱり離れるのも大事、と。一旦離れて、一人で祈っている時期も必要で、その後、イエスは「他の町や村に行くぞ」と、宣教に出発します。「私はそのために出てきたんだから」と、そこから大活躍を始めるわけですね。人里離れた所に出ていって祈っておられたという、その祈りは何だったのか。もちろん天の父に心を開いて祈っていたんでしょうけど、それだけではなかったと思う。豊かな想像力を働かせていたんじゃないでしょうか。あの人たちはこんなふうに辛いだろうな、このひとたちもこんなふうに苦しんでいるな、と。そういう人たちにどういう語り掛けがふさわしいか、どういう救いのわざが必要か、どうやって絶望している人たちを希望の光で喜ばせることができるだろうかと、それは、やっぱり、ディスタンスの間に、思い巡らすことなんじゃないですか。
 新しい教会委員長さんが、誕生しました。副委員長さんも、新しく二人。どうぞよろしくお願いいたします。先週の信徒総会で、新しい委員長さんが挨拶してくださいました。「弱い人や、貧しい人たちを受け入れる、そういう方たちのための共同体にしていきましょう」と。私、なんだかちょっと、ジーンとしちゃいました。まあ、当たり前の話なんですけどね、弱い人、貧しい人、苦しんでいる人、そんな一人一人のことを大切にする共同体にしていきましょうって、それは当たり前にことなんだけど、それが当り前じゃない現場ばっかりですから。想像力のあるご挨拶だったと思いますよ。どういう教会をやっていこうかとか、どんなふうにキリスト信者として生きていこうかと考える時に必要なのは、まず想像力ですから。苦しみを抱えて教会に来れない人もいる、救いを求めているけれどどうしていいかわからない人もいる、仲のいい人たちの集まりにはハードルが高くて近づけない人もいる、自分なんかもう救われないと思って諦めている人もいる、大勢の、それこそイエスを探している大勢の方たちのことを、ちらりとでも、想像する。それが、愛でしょう。
 再び自由に活動できる時に向けて、今は想像力を働かせてましょう。こんな冷たい教会だったら、人間関係につまずいてすっころんで、死んじゃう人も出るんじゃないかとかね。癒しともてなしという、神さまの愛に満ち溢れた、喜びのある教会を準備いたしましょう。今、教会活動を休んでいる間に、行きたいのに行けなかったという人たちが大勢来る、そんな時のために、もてなしの教会を準備いたしましょう。



2021年2月7日録音/2021年3月16日掲載 Copyright(C)2019-2021 晴佐久昌英