福音の丘
                         

人類が持つ最高の力

年間第6主日
第一朗読:シラ書(シラ15・15-20)
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント2・6-10)
福音朗読:マタイによる福音(マタイ5・20-22a、27-28、33-34a、37)
カトリック浅草教会

 雨でお足元の悪い中、また、ウイルスが飛び交う中、ようこそいらっしゃいました。みなさん、勇気ありますねぇ。(笑)道々、息をしないわけにはいかないのにね。(笑)でも、恐れてはいけません。神さまがすべてをはからってくださってるんだから、あとはおまかせだ、くらいな気持ちでいましょう。なんてったって、「恐れるな」っていう宗教ですから、キリスト教は。
 確かに、生きていればこわいこと、いっぱいありますよ。でも、地震がこわい、テロがこわい、終いにはウイルスがこわいじゃあ、何もできなくなっちゃいますよね。感染に注意しなきゃならないのは当然ですけど、やっぱりキリスト者って、「困難なときにこそ、恐れずに輝く人」なんですよ。そういう、ある意味、「キリスト者としてのかっこよさ」を発揮して、みんなが恐れてるときこそ、恐れを超えて、キラキラっと輝いていてほしいなと。

 今日の福音書は、要するに「人の掟じゃない、神の掟だ」ってことですけど、神の掟イコール愛の掟ですから、まさに困難のさなかでこそ、愛を第一にしようってこと。ただわが身を守って恐れて縮こまってるだけじゃなく、さあ今こそ、困ってる人をなんとか工夫して助けようって、そういう愛の掟で生きるのが、キリスト者であるはず。
 だから、このコロナが流行ってる時期に、もちろん、手は洗いましょう、マスクしましょうって色々工夫したらいいとは思うんですけども、単に自分のためだけじゃなく、今一番困っている人は誰だろうって考えて、その人のために何かできないかって、工夫すべき。ご高齢で、体が弱くて、「買物に出るのもこわい」っていう人がいたら、「私が買ってきてあげるね」とか、そういう助け合いの精神でこの試練を乗り越えていきましょうよ。
 だいたい、もうそろそろ、みんな分かってますよね、「ああ、水際で食い止めるのはもう無理だな」と。これはもう、このウイルスとも共存していくしかないでしょう。ただ怯えて排除してじゃなく、こんなウイルスともなんとかおつきあいしながら、今まで以上に人類が助け合う、そんな機会を神さまがくださったんじゃないですか。

 そもそも、ウイルスにだってウイルスなりの、何らかの役割があるんですよね。大~きな目で見たら。ウイルスだって神の創造物ですからね。わたしたちを成長させるための、なんらかの尊いお仕事をしてるはず。試練もまた、恵みのうち。仮に何の試練もありません、何の災害もありません、何のウイルスもありませんなんていう世の中だったら、人類は互いに助け合う必要もありません、愛し合う必要もありません、なんてことになっちゃいかねない。今は、恐れを超えて、困っている人や孤立している人のことを、今まで以上に想像力をもって考える、そんな恵みのときなんです。
 中国だって、かわいそうじゃないですか。現場を想像してください。もう6万人感染して、千人以上亡くなってるんですよ。しかも、貧しい人ほど致死率が高い。あそこは共産国でありながら、医療格差がすごいんですよ。貧しい人は家の中で、何のケアも受けずに死んでいる。まだ治療法がないからどの病院も収容所のようになっちゃってて、食事もままならないところもあるそうですよ。入院した母親から娘に、「あったかいおかゆを一口でも食べたい」って電話がかかってきたっていうニュースも聞きました。なんとかしてあげたいですけれどねぇ。想像力をもって、本気で工夫すれば、なんとかなるんじゃないのかなあ。日本だって、これからが正念場でしょう。「有事に助け合うキリスト者」っていう本領発揮のチャンス到来ってことです。

 こういうチャンスって、さらに言えば、文明論じゃないですけど、今の社会のあり方を考え直すきっかけになるんじゃないですか。あのクルーズ船なんかは、現代の都市のシンボルですよね。「東京」が海に浮いてるようなもんです。だって、舟の最上階では130万円の旅費払った人が豪華な暮らしをしていて、船底では貧しい外国人が大勢、窓もない狭い所で暮らしながら、お金持ちに仕えて必死に働いている。水上のお金持ち2千人のために、水面下で奴隷のような千人が働いてるって、これもう、SFじゃないですか。
 確かにクルーズ船、楽しいんでしょう。ゆっくり観光地を回りたい、おいしいものを食べてのんびりしたいって、別に悪いことじゃない。でも、船底で千人の人が狭い部屋で暮らしながら、汗水流して洗濯して掃除して、お料理作ってお皿洗ってるって思ったら、なんだか、お尻の下がむずむずしないですかねぇ。「こんなことしてて、いいんだろうか」って。まさか船底に行って、「ご苦労様、私もお皿洗いましょう」って言う人はいないと思いますけれど、少なくとも何らかの想像力って、絶対必要ですよね。2千人が贅沢に暮らして、千人は船底に潜んでる船が、世界各国をまわっているんだ、と。

 これはそのまま、現代社会の象徴です。そんな船にウイルスがひと粒入ると、どうなるか。全員隔離されて、そこに貧富の差が歴然と浮かび上がる。お金がある人は、窓のある部屋で暮らしながら、優先的に治療を受け、解放されていく。船底の人は後回し。私、ちょっと閉所恐怖があるんで、窓のない船底の部屋で2週間隔離とか言われたら、牢獄のほうがまだマシです。教誨師として刑務所によく行きますけど、船底よりずっといいですよ。だって、運動場でみんな走ってんだもん。いや~、船底だなんて、牢獄以下です。
 だけど、それが我々の文明の姿なんですよ。海に浮いている格差社会の船。それは、「東京」です。それは、「ニューヨーク」です。そこにウイルスがひと粒入ればどうなるか、心ある人なら、はたと気づくわけです。「これで、いいんだろうか」と。
 貧しい人は治療も受けずに死んでいく社会。「このままじゃ、おかしいんじゃないか。もうちょっと、みんなが助け合って幸せになる方法はないだろうか」と、ある意味、ウイルスは我々に考えさせてくれているんです。神さまは、世の初めから天災もウイルスもある世界をおつくりになって、そこに人間を置いたわけですから、我々はなんとか工夫して助け合って、天災であろうがウイルスであろうが、一緒に生きてかなきゃならない。

 天災って言えば、先週、火山の島を訪問して来たんですけど、これがなかなか過酷な島で、島民は噴火と共存して生きてました。予定していた巡礼旅行がこのご時世で流れちゃったんで、その代わりに、青ヶ島ってところに行って来たんです。青ヶ島、どこだかわかりますか。東京都なんですよ。東京なのに、日本で最も人口の少ない村で、全島民が160人。八丈島から、さらに南にずーっと行った絶海の孤島です。
 ここは、私のような火山マニアにはたまらない聖地で、世界でも類を見ない美しい二重カルデラがあるんです。「ナショナルジオグラフィック」っていう雑誌の、「死ぬまでに見ておきたい世界の絶景13」っていう特集で、日本で唯一この青ヶ島が選ばれたんですね。島全体が海から切り立つカルデラなんですけど、そのカルデラ内に、もう一つカルデラがあるんです。外側のカルデラの最も高い所から内側のカルデラを見ましたけど、見事というか神の業というか、「絶景とは、こういうことか」っていう眺めでした。
 ただこの島は、行くのが超絶難しい。帰るのは、もっと難しい。船の就航率が極端に低いんです。港があるにはあるんだけど、崖下に波かぶる桟橋が一本出てるだけで、ちょっとでも波があると船が着かない。先週も欠航続きで、私は八丈島からヘリで行きました。このヘリがまた滅多に乗れなくて、発売と同時に瞬殺で席が埋まっちゃうんです。9人乗りで、1日1便ですから。私はたまたまキャンセルが出たんで乗れたんですけど、帰りはもう取れませんでした。船が欠航するとヘリの空席待ちをするしかないんですけど、朝の4時から並んでも乗れないんです。現地ではこれを「欠航難民」って言うんですね。私も難民になって延泊しました。4日目になんとか船が接岸できて、大揺れの船で脱出してきましたけど、みなさん、行かないほうがいいです。(笑)

 この絶海の孤島、かつて大噴火したことがある。1785年の噴火で、全島避難しました。全島民が八丈島に避難して、そのまま50年間、帰れなかったんです。50年後に、佐々木次郎太夫って人が、これ、「青ヶ島のモーセ」って呼ばれてる人ですけど、「絶対帰るぞ」と、生き残っていた青ヶ島住人を連れて、青ヶ島に戻った。戻るったって、難破して大勢死んだりもして、簡単な話じゃないんですけどね。そのあたりのことは柳田國男の『青ヶ島還住記』っていう本に詳らかですが、ともかく、だれも住めなくなって全島避難してから50年、もう住居も畑もないのに、それでも人は帰って行くんですね。
 私が感動するのは、そこなんです。便利とか不便とか、安全とか危険とか、そんな事お構いなしに、「それでも、みんなであの島に帰りたい」っていう、その熱い思いに感動するんです。かつてはカルデラの中で暮らしていて、天然の壁に囲まれて天国のようにいいところだったみたいですよ。でも、大噴火のあとはカルデラ内は住めなくなっちゃった。今でも住民は島の端っこの風の強い所にしか住めないし、さらにはまた噴火するだろうとも言われてる。でも、現在の村長さんが言ってました。「また噴火するだろうし、私たちはまた避難するだろう。そうなっても、必ず戻って来る」と。人間って、どんな環境でも、どんなに困難でも、なんとか協力し合って、そこに適応して生きてく生き物なんですね。これは人間の、一番の素晴らしいとこだと思う。
 みなさん、藤井神父さま、浅草の神父さまでしたから、ご存じでしょ? あの方、よくシルクロードだとか、南米だとかって、海外旅行に出かけてましたでしょう。しかも、有名な観光地というよりは、へき地と言うか山奥と言うか、そんなとこに行く。以前、藤井神父さんに、「なんで、そんなとこばかり行くんですか」って聞いたら、忘れられない答えが返ってきた。「こんなとこにも人が住んでるってことに、ぼくは感動するんだ」って。確かに、人間って、極寒の地から火山噴火で帰れない島まで、どんなとこにでも必死に適応して暮らしてるんですよ。なぜ、それが可能か。助け合うからです。協力し合うから。お互いに励まし合い、夢を語り合い、50年たってでも、よし、みんなであそこに帰るぞ、みたいに心を一つにするからです。
 青ヶ島からの帰りに三宅島に寄ったんですけど、三宅島なんかは、つい最近、全島避難しましたからね。覚えてますでしょう、2000年の噴火。あのとき出来たカルデラは実はとても有名で、全世界でこの100年間にできたカルデラの中では、一番大きなカルデラなんです。大噴火で、全島避難でした。私が泊まった民宿の親父さんも、その時は5年間、八王子で暮らしたって言ってましたよ。それでも、火山性のガスがまだ出てるときに島に帰ってるんです。あそこは山腹割れ目噴火の島ですから、次にどこで噴火が起こるかわからないのに。しかも、20世紀以降だけでも、1940年代、60年代、80年代、そして2000年と、20年に一度噴火してるんですよ。ってことは、今年2020年じゃないですか。そろそろまた噴火するんで、その前にカルデラ見ておこうと思って行ったんですけど、行ってみて、島の人たちの適応力と言うか、結束力にはほとほと感心しました。溶岩流で小学校が埋まってたりするんですよ。つい最近まではガスマスクも必携だった。「それでも、ここでみんなで暮らすんだ」っていう、人間の助け合う本性に感動します。

 確かにウイルス渦巻く世界ですけれども、私たち、この星に適応しなきゃならないんですよ。助け合って生きてかなきゃならないんですよ。励まし合って、支え合って。たとえ、いつの日か何らかの理由で住めなくなって「全地球避難」したとしても、やがて「青い地球のモーセ」が現れてみんなを連れ出し、みんな助け合って帰っていくでしょう。そういうところが、人間のすごく素敵なところだなぁと思う。自分だけ楽しい思いをしようとか、自分だけ助かろうとすると、それは結果的に自分を滅ぼすことになるけれど、助け合うならば結果的に自分を救い、みんなを救う。
 さっきの第一朗読、ドキッとさせられる言葉でしたよね。シラ書ですけど、みなさんなら、さあどっちを取るか。
 「人間の前には、生と死が置かれている。望んで選んだ道が、彼に与えられる。」(シラ15・17)
 いや、そりゃ生が欲しいだろうって言うかもしれないけれども、生を欲して助かろうとしても、自分のことしか考えないのであれば、それは死の世界です。逆に、人を救おう、逃げずに困難に適応しよう、助け合って共にやっていこうとすると、それは生の世界です。わたしたちがどちらを選ぶかで、未来は決まってくる。考えてみると、地球って、かなり過酷な環境ですよね。地震もあります、台風も来ます、そして疫病すら流行る。こんな星の上に、なぜ神さまが人を置いたかっていうと、「まことのいのち」を勝ち取るためでしょう。「与えられたこの環境で、生き延びようじゃないか」と。生き延びるためには、「愛」が必要です。地球の歴史は苦難の歴史ですけれども、人は、生を選び取り、生を勝ち取ることができる。「欲しい方を取ればよい」(シラ15・16)と。私は、まことのいのちを取りたい。

 イエスさまが、今日の福音書で、最後に言ってました。「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい」(マタイ5・37)。「然り」って「アーメン」ですね。「本当にそうです」「引き受けます」「全面的に、それに委ねます」っていう、決心ですね。
 私たちが具体的に助け合うことを望んでおられる神のみ心に、私たちは「アーメン!」と言って、助け合います。「なぜこんなことが起こるのか」と文句を言ってはいけない。「こんなこと」が起きるからこそ、人は助け合うし、生を選び取ることができるし、共に生きる者となることもできる。これは、神さまの作戦というか、神のみ業ですから、「No!」って言えない。私たちは、「アーメン」とだけ言う。今、中国の武漢でどれほどの人が苦難に遭っているか。助け合うという道を選び取って、私たちは、「アーメン」と言う。

 (会衆席を見回す)洗礼を希望しておられるKさん、来られてますか。・・・あぁ、おられますね。先日の洗礼面談で、今日までの苦しかった人生を語ってくださいました。つらい病気を抱えていることもあって、救いを求めて教会に来られて、入門講座で学び始めたところです。希望を新たにして生きていきたいので洗礼を受けたい、と望んでおられます。ぜひ受けていただきたいと思いますが、最初に来られたのがクリスマスで、通い始めてまだ間もないので、「内定は出しますけど、洗礼は来年にいたしましょう」って申し上げました。
 Kさんは、病気が苦しいし、将来が不安だし、夜はなかなか寝付けなかったそうです。でも、入門講座で『十字を切る』を教わったので、寝る前にゆっくり十字を切るようにしたら、安心してよく眠れるようになったんですって。これこそまさに、信仰です。素朴でしょ? 天の父に信頼して、イエスさまに頼って、聖霊の働きに身をゆだねて、「父と子と聖霊のみ名によって、アーメン」と十字を切って安心して床につくと、よく眠れる。信じるってそういうことでしょう。みなさんもお試しくださいね。素朴な信仰こそ、ホントの信仰ですよ。
 そんなKさんが、面談の後で、「そうは言っても来年は遠い。こんな時期だし、病気を抱えて生きているのは本当に不安なので、やっぱり今年受けたい」と心から願っているということを、先ほど香部屋で聞きました。確かにこの状況は特別ですし、ぜひもう一度、面談したいと思います。(Kさんに)よろしいですか、今年の受洗のことを前向きに話し合いたいと思うので、ミサのあと残っていてください。みなさんにも紹介しましょうね、Kさん、お立ちください。こちらがKさんです。(会衆が拍手)ぜひ、なるべく早く、助け合う仲間として浅草教会にお迎えしたいと思っておりますので、どうぞお祈りください。
 私たちは、助け合うために、生きております。もちろん病気はつらいし、災害も苦しい。ウイルスとの共存も、想像以上に大変です。でも、キリスト教は、困難なときにこそ、「さあ、今こそ助け合うぞ」と、身を起こして頭を上げます。「助け合う」という、人類が持つ最高の力で、この困難を乗り越えてまいりましょう。



2020年2月16日録音/2020年5月3日掲載 Copyright(C)2019-2020 晴佐久昌英