福音の丘
                         

だって、家族ですから

年間第6主日
第一朗読:エレミヤの預言(エレミヤ17・5-8)
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント15・12、16-20)
福音朗読:ルカによる福音(ルカ6・17、20-26)
カトリック浅草教会


 「あなた方は幸い」
 イエスさまからそう言われましたけど、さて・・・皆さんはそう聞いて、自分は幸いだと思ってるんでしょうか。結構不幸なことだってあるよ、ってのが本音でしょうか。どう読みましたか。
 新共同訳聖書の翻訳では、「幸い」という翻訳なわけですが、ここで、「幸せ」と「幸い」の違いについて、ちょっと頭に入れておいていただければと思います。何が違うの?って思うかもしれませんけど、私は、「幸せ」と「幸い」を、区別して使っています。
 「幸せ」っていうのは、幸せと不幸せっていうように、相対的なものです。相対的ですから、たとえば「前よりは幸せ」とか、「幸せな人に比べれば、私は不幸せ」とか、そういうことになるわけですね。それぞれに幸せの基準があるというか、その人なりに幸せのレベルがあるというか、上には上があるというか、下には下があるというか。
 現に、日本でいくら「貧しい」って言っても、世界の最貧国からみたら「なんて幸せな人たち」って思うでしょうね。山谷の簡易宿泊所で貧しい暮らしをしてます、なんて言っても、ちゃんと屋根の下に住んで、トイレがあって、蛇口をひねれば水が出るわけで、難民キャンプから見れば、「なんて素晴らしい生活をしてるんだろう、これで文句言う人がいるの?」っていうことになる。これは、「幸せと不幸せ」っていう相対的な感覚です。
 相対的ですから、これは、どこまで「幸せ」を追い求めても、幸せになれっこないんですね。だって、たとえば普段結構いいもん食べてても、テレビでもっとおいしそうなもの見ると、「よーし、明日はこの店に並ぼう」とか思うじゃないですか。(笑)まあ、別に悪いことじゃないと思いますよ。頑張って朝から並んでおいしいもん食べて、よりいっそう「幸せ」になってよかったね、って話ですけど、じゃあたとえば、朝から体調悪くてそれが食べられなくなったりしたら、途端に「あぁ、なんてついてないんだろう、がっかりだ」って言いだして、「不幸せ」になる。相対的ってことは、そういうことです。
 それに対して、「幸せだろうが、不幸せだろうが、どっちにしても幸せだ」っていうような種類の幸せがあるんです。私たちキリスト者は、それをこそ求めるべきだし、それを私は、「幸い」っていう言い方で呼びます。幸いは、相対的じゃない。幸、不幸を超越してるんです。「幸せ」には、反対語の「不幸せ」があるけど、「幸い」には、「不幸い」とかないじゃないですか。それは、超越的で、絶対的なるものなんです。言うなれば、初めから、神から与えられているようなものだし、それに気づくならば、そしてそれをみんなで共に分かち合うならば、何があろうとも、もうそこに神の国は始まっている、そういう恵みの世界。人はそのような「幸い」にこそ、気づくべきです。「健康でも幸い、病気でも幸い」っていう世界観。「お金があっても幸い、貧しくても幸い」とか。そのような普遍的な幸い。
 私は、そのような「幸い」を一番分かりやすく体験できるのは、やっぱり「福音家族」だと思ってます。健康でも病気でも、福音家族がいれば。富んでいようが貧しかろうが、福音家族の仲間たちさえいれば。それこそは、究極の幸いである神の国の目に見えるしるしなんであって、それこそは、イエスさまがお始めになった、弱い者たちが共に生きる、幸いの教会なんです。血縁の家族に恵まれていても恵まれなくても、福音家族さえあれば。イエスはそんな家族をこの世にもたらしたし、そのご自分の家族たちに、「あなたがたは幸い!」と宣言したんです。
 最近、だんだん歳とってくると、つくづく思うんですけど、もう十分いいもの食ったし、いろんな感動も味わったし、これ以上いいかな、みたいな。ホントに大事なものはこれだけだよねってことに近づけてるような気がする。それはやっぱり、若い頃はまだ分かってなかったかな。若い頃から悟っちゃって、「もう何も必要ありません」なんていうのは、聖フランシスコでもなければ難しいでしょう。この資本主義社会、競争社会、金、金、金の中で、そこに気づくのは難しい。でもさすがに、歳とってくると、今まで、どうでもいいことを求めすぎてきたな、と気づく。ほんとに大事なものって、すでにとても身近にあるし、それはまさに、ここにいる私たちこそが、みたいな感覚。

 こうしてミサに集まってますけど、これ、素晴らしいことなんですよ。私なんかがわざわざ言うまでもないことでしょうけど、週に一度でもこうして集まって、共にご聖体をいただいて、共に祈って、「これが家族だ」と思える、こういう信頼できる仲間たちがいるっていうのは、ホントに素晴らしいこと。
 ただ、まだまだ、そこを極めてはいないんだから、もっともっと、この道を共に行きましょうよって思う。昨夜も若い仲間たちが集まって、みんなでしゃべって笑って、「ああ、こういう仲間たちがいれば、もう他に何にもいらないな」って思いましたけど、私は、どんな福音家族の集まりでも、必ず言います。「これはただの仲間じゃないですよ。助け合う家族ですよ。もしもこの中の誰かがホントに困ったことになったら、必ず助け合う仲間になりましょう。今日『はじめまして』っていう人もいるけれども、この集いは、そういう家族になるという覚悟をもった人たちの集いですよ」と。そうして、一度でも一緒に飯食ったらもう、誰かがホントにつらい思いをしたり、困って助けてくれっていうことになったときに、この仲間が家族として、いや、家族以上のつながりとして、お互いに助け合う。
 皆さんもそういう仲間であるはずですよ。お互い、あんまりよく知らない、何に困っているかもわからない、今、隣に座っている人がどんなことで悩んでいるか、どんなにつらい思いをしているか知らない、っていうんじゃ、教会って言っても、「幸い」からは遠くないですかね。「幸せ」なんかを求めているレベルじゃあ、幸せか不幸せかという相対性にのみ込まれちゃう。「この仲間がいるから、何があろうと我々は幸いだ!」そう言えるような福音家族、これに憧れていいんじゃないですか。

 ずっと以前に浅草教会で洗礼を受けたっていう方が、昨日、来ました。お父様が亡くなったっていうんですね。で、亡くなる前に、お父様が自分も洗礼を受けたいと言い出した。でも、ずっと教会に行ってなかったんで、所属教会に相談したけれど、うまくいかなかった。で、ふと、洗礼を受けた教会に行ってみようってことでいらしたんですね。そんなご縁でお父様、洗礼を受けることができて、そして亡くなりました。なので、浅草教会の所属ということにして、浅草教会でご葬儀をという話になり、今週、ここでご葬儀が行われる。まあ、そういうことです。
 そんな小さなご縁でも、家族は家族、なんですよね。教会の葬儀は、家族葬なんです。この方、幼児洗礼ですけども、この教会で洗礼を受けた。でも子供のころから教会とずっと離れていて、全然ミサにも行ってなかった。とはいえ、お父様にはなんとか洗礼をと思ってる、そんなときに、「家族ですから」っていうことでね、助け合うのが、教会ってことです。なんでも頼みに行ける、ちゃんと受け入れてもらえる、遠慮なし。家族って遠慮なし、でしょう?お互いに甘えあって、「しょうがねえな」って言いながら、助け合う。

 その意味で言うなら、イエスさまがね、「貧しい人は幸い」(cf.ルカ6・20)って言いますけど、普通は「そりゃないだろう」って思うじゃないですか。「今泣いている人は幸い」(cf.ルカ6・21)とかって言われても、「いや、不幸だから泣いているんですよ」って言いたいじゃないですか。それでもなおも「幸い」っていうのは、貧しさや涙こそが、神の国を開くからです。
 「貧しい人は幸い、神の国はあなたがたのものである」(cf.ルカ6・20)
 貧しいからこそ、助け合う仲間がどうしても必要だし、だからこそ、実際に助け合う福音家族を持っているから、「幸い」なんですよ。富んでる人は、自分のお金や力で何とかなると思い込んでいるから、そういうつながりを持てないでいる。だから、不幸なんです。
 今泣いていようが、飢えていようが、福音的な家族を持っていたら、それは天の家族の先取りであり、この世でも救いを味わえるし、永遠の幸いへの希望も持てる。これは、実は富んでる人だって、本来得られるはずの、本来持っているはずの幸いなのに、それに気づかないでいる、それこそが、究極の不幸でしょう。
 我々は、気づいている仲間ですよね。だから、ここに集まっているはずです。遠慮なく、「幸い」をやっていきましょうよ。みんな、病気になることもあるし、時には貧しくなることもあるでしょうし、実際、実は家がなくて困ってる人が、このミサにいて、つい先日私が家を斡旋してあげましたけど、そんなことをいくらでもできるのは、家族だからです。血縁を超えた、教会家族。不幸でも一緒に助け合って生きる幸いな仲間たち。
 貧しいあなたたち、でも、だからこそここで出会えた。
 飢えてるあなたたち、でも、だからこそここで分け合って食べている。
 泣いているあなたたち、でも、だからこそこうして祈り合い、励まし合ってる。
 この家族は、ホントに幸いです。
 逆にね、富んでいても、お腹いっぱいでも、今笑っていても、不幸な人、いっぱいいます。もちろん、ひと時「幸せだ」って言ってる人はいっぱいるし、「不幸だ」って嘆いている人もいっぱいいる。でも「幸いだ!」って言っている人たち、どれだけいるでしょう。
 皆さんは、「私は幸いだ」って言いましょう。お互いに「家族だから助けよう」っていう気持ちでいればそれで十分です。遠慮なく、お互いに正直に打ち明け合って、ちょっと融通し合えば、神の国は、あなたがたのものです。

 昨日、いやしのミサに初めて来た方が、ミサの後で、「2か月前に、14歳の息子が自殺しました」と。小柄なお母さんでしたけど、顔が青ざめていて、もうどうしていいかわからないご様子でした。人から「いやしのミサがあるから、行ってみたら」って勧められて、昨日のミサに来てました。
 その時は時間がなかったので、来週ゆっくりお話を聞きましょうと言って、面談の日程を決めて、五分だけお話ししましたけど、3つのことをお伝えしました。
 まず、「息子さんは、生きています」と。この世的には確かに死んだ。でも、息子さんは生きてます、と。天のみ国に生まれ出て行って、天の家族と共に生きているし、その息子さんと、これからも、生きていた時以上に深い交わりを持つことができます、と。もう取り返しはつかない、二度と会えないと思ってるでしょうし、しかも自分のせいだとさえ思っているでしょうけど、終わってないどころか、ここから息子さんは真の意味で働き始めるし、再会の日は必ず来る。それが、第一。
 それから、「その死は、十字架です」と。自死っていうのは、追い込まれてのことがほとんどで、つまり本人のせいじゃないんですよ。世界の悪、人類の罪、そのしわ寄せが、一番純粋な人に全部行く。その犠牲を、息子さんは背負ったんです。だから、それは十字架なんです。十字架なんだから、その十字架は実はみんなの罪を背負っている十字架であり、息子さんはたとえ短くても神に愛された素晴らしい生涯を生きて、そしてみんなの罪を癒すために十字架を背負って天に召された。その意味では、だれよりも今天の父に祝福されているし、イエスの十字架につながっているし、だからこそ、もうすでに、復活に連なって、まことの命を生きていますよ、と。
 そして、「その息子さんと一緒に、働きましょう」と。彼の死をむだにしないためにも、この世界を少しでも良い世界にしていくために、息子さんと一緒に働きましょう、と。そのためにも、お母様には、信仰が必要です。福音が必要です。神の国の実現のために、天の息子さんと一緒に働くことを息子さんは望んでいるし、あなたにそれができます。やがては息子さんが生きている天の国にあなたも生まれていきます。その準備として、私たちと家族になりましょう。みんなと共に働くとき、息子さんもまたいつも共にいるし、やがて天で再会したときの喜びを先取りできますよ、と。
 福音家族って、こういうお母様が孤立してつぶれてしまわないように、現実にいい仲間たちで支えていくことです。このお母さまが、もしも、「ああ、こんなに不幸だけど、でも幸いなんだ」って気づいてくれる、それを私は望みます。14の息子が自殺したなんて、これ以上の不幸はないっていうくらい不幸。でも、それを救えないっていうんじゃ、福音じゃありませんから。必ず救えます。希望を新たにできます。私はそう信じます。だから、どんどん教会に集まってきたらいいんですよ、一番不幸な人たちが。この世の常識では、もうケアできません。医者もケアできません。警察にもケアできません。だけど、教会に行ったら、救われるんだっていう確信、自信を持っていただきたい。

 警察っていえば、先週の日曜日、浅草警察から電話が来て、今、1人、若い女性を保護しているんだけれども、混乱してて、自宅には帰らないって興奮してて、だれか身元引受人はいないかということで、本人に「だれか引き受けてくれる人はいませんか」って聞いたら、「晴佐久神父」って言ったと。(笑)入門家族に何回か来たことがあって、一緒ごはんもした人なんですね。なので、「どうぞ連れてきてください」って言ったら警官が3人、教会まで連れてきました。
 ということで、まずはごはんを食べさせ、チョコレートが好きだって言うからチョコレートを食べさせ、ちょうど夜に、心の病を抱えている方たちの福音家族があったんで、そこでみんなと一緒ごはんをしてるうちに気持ちも落ち着いてきました。聞けば、家出して簡易宿泊所に住んでいるっていうことで、結局夜は帰っていきましたけど。
 その3人の警官が来たときですけど、書類を書かされたんですよ。身元引受人っていうところにサインしたり、なんかいろいろと。警官を前に書いてたんですけど、本人との関係っていう欄にどう書こうか迷って、何気なく「まあ、家族なんですけどね」ってつぶやいたら、3人、びっくりして、「え、ご家族なんですか」って。「いえ、福音家族って言うんですけど、まあ、血縁を超えた家族っていうか、神の血縁っていうか。入門家族っていう集いがあって、そこで一度でも一緒ごはんをしたらもう、家族なんで」とか話したら、きょとん、としてましたけど。
 これ、警察には、なかなか理解できないかもしれない。でも、目指しましょうよ、そんな家族。素敵じゃないですか? そりゃあ、家族だからこその大変なこともあるだろうし、失敗したりもあるだろうけど、でも、幸いじゃないですか? このひどい世界で、幸せだの、不幸せだの言って、バラバラになって、憎み合って、傷つけあっている世の中で、「それでも幸い」って言える家族をつくれたら、あなたがたは、幸い。

 ま、そういうわけで、明後日、ここにご遺体がやってまいります。翌日、家族、親戚だけのミサをいたしますので、会ったこともない方でしょうが、よろしかったら、皆さんもご葬儀ミサにいらしてください。
 だって・・・、家族ですから。



2019年2月17日録音/2019年5月29日掲載 Copyright(C)2019 晴佐久昌英