福音の丘
                         

治すべきは患者か? 私たちか?

年間第5主日
第一朗読:イザヤの預言(イザヤ6・1-2a、3-8)
第二朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント15・1-11、または15・3-8、11)
福音朗読:ルカによる福音(ルカ5・1-11)
カトリック上野教会

 
 カッコイイですねえ、イエスさまのひとこと。
「あなたは、人間をとる漁師になる」(ルカ5・10)
 私もそう言われ、みなさんもそう言われ、人間をとる漁師になりました。およそ洗礼を受けた人は、みんなそうです。人間をとる漁師。魚をとる漁師は、魚をとるわけですけども、人間をとる漁師は、人間を救います。当時のイメージでは、水の中はとても怖い世界で、悪の力に支配されている。その、悪にのみ込まれている人間の現実から、人を救い出す。そういう漁師にするって言ってんです。すごい仕事でしょ。およそ洗礼を受けた人はみんなそうなんです。私もそう、みなさんもそう。
 現に、目の前に、悪にのみ込まれて苦しんでいる人が、社会が、恐ろしい出来事がいっぱいありますから。それをどうしても救えないって言うんならね、ただ諦めて、恐れるだけですけど、イエスはそれを救うことがおできになるし、洗礼を受けた私たちも救うことができます。できないことをやれって、言ってんじゃない。できるのにやらないのが、またこれも罪なわけですけど、われわれには、できます。どれほど世の中がおかしくなろうとも、私たちキリスト者は、この世界を救うことができます。

 ペトロがイエスに「網降ろせ」って言われた時にどう思ったかっていうのは、理解できますよね。漁は夜やるもので、昼間に魚なんかとれるわけがない。プロですから、そんなことはわかってる。しかも、網を洗ってた時ですからね。網洗うの、大変ですよ。ようやく洗ったその網を、また降ろせってか、と。
 だけど、ペトロはひとこと、「お言葉ですから、やりましょう」と。ここがねえ、やっぱりイエスの一の弟子ってことでしょう。自分の理解じゃない。自分の力じゃない。神が働く。だから、「お言葉ですから、やりましょう」と。どう考えたってできっこないんだけれども、イエスを信じて「でも、やりましょう」と。すると、できる。これが、キリスト教ですね。
 それでペトロはすべてを捨ててイエスに従うわけですけど、その直前に、重要なひとことがあるんですよ。ペトロが、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ5・8)って言ってるんです。ペトロは、この世の罪深さをわかっているし、自分もその罪にのみ込まれていることが、よくわかっている。だから当然「私は罪深い者なのです」と言う。「とても聖なるあなたのそばにいられるような者ではありません、離れてください」と。そうペトロが言っているのに、イエスは「そんなあなたを、わたしは選んだ」と言うかのように、「人をとる漁師にしよう」と。もうここでは、罪深いとか、ふさわしくないとか、自信がないとかとは全く関係がない。イエスが、選ぶ。神の側が選んでるんです。これが、大事。
 後にペトロは復活の主に出会って、本当に罪から解放されて、罪のゆるしをもたらす福音を全世界に告げ知らせる者になるわけですね。キリスト教の本質は、「神が選んだ」、そこにあります。確かにこの世界は罪にのまれているし、この私も罪深いんだけども、なぜだかはともかく、神がこの私たちを選んで、私たちの罪を全部ゆるし、なおも罪に苦しむ人々を救うために、私たちを遣わしたのです。キリスト教は、そこに本質がある。

 そのことが、第二朗読に描かれていたと思います。パウロが言ってます。「私が語った福音を、あなたたちはもう聞いた」と。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたことは、わたしも受けたものだ」(cf.一コリント15・3)と。キリスト教には、幅広いいろんな教えがくっついてますけども、一番真ん中の、ここからブレてはもうキリスト教じゃなくなるっていう本質のとこですね。
 それは、キリストが私たちの罪のために死んだんだ。そして、罪のゆるしとして復活したんだってことです。人類の罪を背負って死んだんだけども、神はその罪を全てゆるして、ゆるされた喜びを味わわせるためにキリストを復活させました。復活の主に出会った者は自分の罪がゆるされたことを知って、本当に感動し喜んで、「あなたの罪もゆるされてるんだよ」と伝えるために、世界に散っていった。ここが、キリスト教の本質なんです。
 だから、罪の話抜きにキリスト教は話せない。しかし、罪の話だけじゃ意味がない。その罪から、我々はすでに、十字架・復活によってゆるされたんだという福音、これを伝えなきゃならない。パウロは、なんとしても、そこだけは決してブレずに言っておきたいって、そう言ってるんです。なにしろパウロなんか、人殺しだったんだから。キリスト者を殺してたんだから。キリストの教会を迫害してたんだから。だけれども、「そんな私を神はゆるしてくれた。主イエスがそんな私に現れてくれた。だから、あなたの罪も必ずゆるされる。いや、もうゆるされている。みんな、それを知ってくれ!」と。
 みなさんも人をとる漁師なわけですから、いろんな折々に「あなたの罪はゆるされている」ということを伝えなきゃならない。まずは、罪にのみ込まれているこの世界の現実をきちんと見て、その罪をゆるす神の愛を信じて、福音を伝えるために、一緒に働きましょう。そういうことですね。

 今日はこの後幼児洗礼ということで、赤ちゃんを抱えているお父さんが目の前におりますが、本当に「おめでとう!」って気持ちになりますし、こうしてお父さんがかわいい赤ちゃんをしっかり抱えている姿に、感動します。
 ただ、私、その姿見ると、どうしても、先週の虐待の事件を思い出しちゃうんですよ。あのお父さんだって、最初は、わが子をかわいいと思って、抱きかかえた時があったはずでしょう。それが、なんであんなことになっちゃうのか。かわいいわが子を三日三晩立たせて、冷たい水浴びせて、殺しちゃう。肺の中に水が入ってたそうですよ。
 なぜそんなことになっちゃうのか? 人の中に、なおも罪があるからです。人はだれもが罪を抱えている。邪悪な思い、支配欲、自分の思う通りにしたいというとらわれ、何かのスイッチが入ると、罪が発動する。ひとごとじゃないですね。社会全体にも、そんなスイッチが入っちゃってて、社会全体が病んでるんじゃないですか。こんな親父は捕まえて刑務所に閉じ込めればいい、それで済む話じゃないですよ。

 閉じ込めるっていえば、数日前 NHK で、精神病院を取材しているジャーナリストの番組をやってましたけど、その人が言ってました。もう長いこと精神病院を取材しているけれど、多くの人がまったく社会復帰できずにいて、中にはもう50年入ってる人がいる、と。病院って、治療するところだと思いきや、もうそこでしか生きられない人たちを大勢つくり出して、ほとんど共依存みたいな仕組みになってるんですね。だけど、50年入院って、おかしくないですか? 実は日本の精神医療は、今や世界でも有名なほど、遅れてるんですよ。きれい好きの日本人の気質に、そういう現実をもたらす傾向があるのかもしれないですね。病んだ者、おかしな人、汚れた存在を排除して、どっかに閉じ込めておけばそれで安心、みたいな、恐れ。恐れこそが罪の本質なわけですけど、そういう罪が日本人の心の奥に潜んでるんじゃないか。そうでもなければ、こんなことになりようがない。
 そのジャーナリストが、こう言ったんですね。
 「精神医療において、治すべきは患者か? それとも私たちか?」。
 治すべきは患者か? 私たちなのか? 重い問いかけです。つまり、私たちの病んだ社会が精神の病を生んでいる以上、まずは私たちの社会を治さない限り、患者も治りようがないってことです。彼らがどんどん病んでいくのは、実は私たちのせいでもあるんです。われわれが受け入れないから。裁くから。排除するから。見下して、軽蔑して、攻撃するから。そうして、病まなくてもいい人たちが病んでくんじゃないですか、同じ神の子なのに。
 この社会全体が、罪にのまれています。そんな中で、若者は犯罪を犯します。不安定な人は精神病院に閉じ込められます。父親がわが子を虐待します。この社会を、だれが救うんですか? われわれキリスト者じゃないですか。罪にのみ込まれている、この社会を救うことが、神にはできる。キリストはそのために遣わされた。キリスト者である私たちも、そのために選ばれているし、遣わされていくんです。

 罪って、元の言葉では「的外れ」っていう意味なんですけど、ピタッと神さまと照準が合っているとそこにくっきりと天国が現れるのに、なんていうんでしょう、神との関係がブレてて、全体がぼやけちゃってる状態ですね。
 私がミサ中持ち歩いてるのは、これ、遠視の入った老眼鏡ですけど、こうしてかけていないときは、実は、みなさんの顔はぼんやりとしか見えてないんです。まあ、見るほどのものでもないから、かけてないんですけど(笑)。だけど、こうして、眼鏡をかけて見ると、ピタッと合う。(眼鏡をかけて、2階席を見渡す)「おう、君もいたか!」っていうことですよね。「おう、君もいたか!」「おう、君もいたか!」。今、私が「君もいたか!」って言った3人は、つい先週、浅草の私の部屋でグデグデに飲んでいた。(笑)その3人が、なぜかそろってますね。
 そういえば、あなたたち、お互いに「早く洗礼受けろ!」とかって、やりあってましたよねえ。「洗礼はいいもんだぞ」とかって、昨年受けた一人が、まだ受けてない仲間に迫ってました。まあ、強要するもんでもないですけど、確かに洗礼は、いいもんです。ピタッと照準が合うんですね。もう、この世の中がブレているから、ボケているから、的外れになってるから。病んでるんですよ。でも、ちゃんとその病を治して、神の愛にピタッと照準を合わせるとそこに、健康な関係が生まれる。洗礼っていうのはそういう恵みです。それは、本人が受けようと思って、受けるもんでもない。神の側があなたの罪をゆるす。それを受けて、神と真っすぐにつながる。そうして、神に遣わされる。これ、神がやってること。

 第一朗読では、イザヤの召命のところが読まれました。イザヤがなんで「はい、わたしはここにおります。わたしを遣わしてください」(cf.イザヤ6・8)って言ったかっていうと、罪がゆるされてるって知ったからです。
 最初は、なんかこう、天高い座に主が座しておられるのを、イザヤは見てるわけです。天使たちが、「聖なる、聖なる、聖なる主」って、互いに呼び交わしている。それを見て、イザヤは、それこそ、さっきのペトロと一緒で、言うわけです。「私は汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者」(イザヤ6・5)。罪の世に住んでいる、こんな罪の私。そんな私がこんな美しい天を見たら、もう滅ぼされてしまうだろうって思う。
 ところが、その天使の一人がですね、パタパタと飛んで来て、イザヤの口に、火鋏で取った炭火をジュっとあてて、言うんです。「あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」(イザヤ6・7)。そう言われて、天から「誰を遣わすべきか?」(イザヤ6・8)。もう、イザヤは言うしかないわけです。
 「主よ、わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(cf.イザヤ6・8)
 神は、罪をゆるします。こんな罪深い私でも、ゆるされます。そうして、私は遣わされます。これ、私が志願したんじゃないんです。ゆるされて、選ばれて、志願せざるを得ない状況。召命ってやつですね。その意味では志願兵じゃないんです。もう召集令状が来て、逃げようもない。神に選ばれて、召されてしまった。もはや、この私は、神とピタッと照準が合って、その神の中で生きていきます、と。
 相変わらず罪の世の中で、罪にのまれながらではあるけれども、もう神さまがこの私を選んだのだから、私は真っすぐに神さまとつながって、神さまの御国のために働きますと。そうです、キリスト者たちのね、この召命っていうものを・・・。

 赤ちゃんの声が聞こえてきたぞ。かわいいねえ! 幼児洗礼式は、私、好きですよ、成人洗礼もいいけど、成人洗礼ってね、なんかこう、「私が理解した、私が決心した」みたいな、よこしまなものがちらつくからね。(笑)幼児には、それがまったくない。洗礼を受けたいなんて、かけらも思ってない(笑)。なんの勉強もしてない(笑)。ただただ、神から選ばれた、それだけです。洗礼の、本質です。それは、美しい。もちろん、これからだんだん学びましょう。もちろん、これから罪を犯すこともあるでしょう。でもね、先立ってゆるされているという福音に感動するでしょう。そうして、自分が子どもの時に、赤ちゃんの時に洗礼を受けたことを、感謝と喜びをもって受け止めるでしょう。
 どうか、みなさんも、自分の洗礼をもう一度思い起こしてください。それは、神が授けたものです。神がもうすでに、洗礼によって全ての罪をゆるしました。もちろんその後も罪はまだまだ抱えているものの、それは、手術の後で、もう治ってはいるけどまだリハビリは必要、そんな感じです。「洗礼によって全ての罪がゆるされた」と、教会は宣言する。そんなみなさんがどれほど素晴らしい力を秘めているか。(その時、赤ちゃんの上げた声に対して)本人が「そうだ!そうだ!」って言ってますよ(笑)。



2019年2月10日録音/2019年5月16日掲載 Copyright(C)2019 晴佐久昌英